日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎令和元年秋に起きた出来事(その2)

◎令和元年秋に起きた出来事(その2)

 前項の続きとなる。

 

5)そこにはいない筈の人影

九月十五日および九月二十七日にK神社の神殿前で撮影

 ⑤⑥⑦⑧は、いつも通っていた神社の神殿前で「ガラス戸に映る私自身」を撮影しようとした画像だ。それまでの、その場に私一人しかいない筈なのに、他に一人または二人ほど人影が写ったことがあるのだが、この時期くらいから数が増えた。

 と言っても、見慣れぬ人にはほとんど分からぬと思う。

 それまでの経験で、あの世の者たちが「ほぼ霧の中に居て、時折、霧の中から人影が実体化して現れる」ことを知った。そこで、まずは「眼に見えぬ霧」の所在に着目し、その霧の付近にひとの一部もしくは全部が現われていないかを確認することにした。

 この手順によれば判別が幾らか容易になる。霧の中のほんの僅かな兆しでも「想像と推測がつく」ようになる。それに加えて「声」が伴っていれば、その推測を補強してくれる。

 ⑤は「旅先」フォルダの中にあったから、撮影当時は認識出来なかったのだろう。

 その後、「その位置で撮影すると必ず映る背景」と共に、「霧の中をある程度見通すこと」が出来るようになったので、それが単なる「気のせい」なのか、「何か」説明の付かぬものがそこにあるのかの違いが判別できるようになった。

 これらは霊感とは無縁の「経験」の裏付けによる。

 

 ⑥では、神殿の前にいたのはは私一人がだけだったのだが、私は少なくとも十数体の人影に囲まれている。由々しいのは、私の右手付近にいる女で、背後から抱き付いたのだが、頭が通り抜けて私の前に出ている。人間と同じで、「二㍍は離れていろ」という言いつけを守れぬ者もいる。

 誰でも確認出来そうな素材は、私の右手にある「触手のような腕」だ。細長く雲の脚のようだが、元は人間の腕だった。長く幽界に留まると、幽霊同士が同化・合体を繰り返すことで、姿かたちが変貌して行く。俄かには信じられぬような妖怪やバケモノに見える外見を持つ者があの世(幽界)にはいる。

 ちなみに、この位置には室内外とも、これと錯覚させるような物体はない。

 

 ⑦⑧は、冒頭の「車内の煙玉」を後のものになる。

 画像を解析した後の図が見つからなかったので、解析前のものを掲示したが、見つかった時点で取り換える。

 この画像にも、「触手のような腕」とその持ち主である「バケモノ」の姿が映っている。これが見間違いでないのは、バケモノの腕が「私の首と右腕の間を通っている」という事実による。私の背景にあったものでも無ければ、ガラスの向こうの室内にあるものが「たまたま」そう見えたわけでもない。触手は「私の首と腕の間にあった」という判断しか出て来ない。

 この時の状況を端的に表せば、「訳の分からぬあの世の者たちがぞろっと私の周囲に集まっていた」ということだ。

 

6)N湖から引き上げた者たち

九月下旬から十月頭にかけての異変

 八年以上前から時々、N湖を訪れている。最初の三四年については、別段違和感を覚えなかったので、人気のない湖畔で持参した弁当を食べたりしていた。

  これがある時を境に見え方が変わった。

 そのきっかけは、湖畔を走る警察の舟艇二隻を見てからだ。各艇に警察官が四五人ずつ乗っていて、急いで湖岸のある地点に向かっていた。ある地点とは「岸に舟をつけられるポイント」で、これはかなり上流の方になる。

 湖の上で「警察が何かを捜索した」となれば、「何か」の種類は限られる。

 たまたまその地点の傍にいて、実際にその現場を見てしまったので、それまでの理由が氷解した。

 その時までは気付かなかったのだが、N湖の幾か所かでは「ひとの声が聞こえ」ていた。初めは対岸の釣り人が話す声なのかと思っていたが、数百メートルは先だ。湖面による反響効果はあっても、対岸に届くほどの距離ではない。

 「ぶつぶつ」「かやかや」と話す声が聞こえるのだが、そもそもその声は遠くの方からではなく、下から聞こえていた。

 「警察」と「声」を照合すれば、概ね何が起きているのかは想像がつく。

 それまでは遠景しか撮影しなかったのだが、この時からポイントごとに丁寧に撮影することにした。すると、無数の幽霊が屯する「穴」があることが分かった。

 「穴」はこの世とあの世を直接結ぶポイントで、常時、幽霊が出入りしている。一つの「穴」は、概ね半年から一年くらいで消失して別の場所に移る。

 その地には少なからぬ因縁があったので、「穴」が出来やすい環境になっていたということだ。

 苦悶を抱えた幽霊が集まると、そこが不浄の地となり災禍を招きやすい。実際、あちこちで崖が崩れ、湖岸の道が半年くらい不通になっていた時期もある。

 私にとっての転機はレストハウスでの出来事だ。

 たまたまガラスに映る自身の姿を撮影したのだが、それとは別に、「黒いコールタールの海の中でもがく女たち」の姿が画像に残った。これは私には鮮明なのだが、他の人に見えるかどうかは分からない。

 ただ、私はその場にいて「声」を聞いている。「見える・見えない」「鮮明・不鮮明」どころの話ではなく、はっきりと「助けて」と声を掛けられるのだ。

 自死者は「死に間際」の妄執にかられたまま、「死の前後の姿のまま」でいることが多い。女たちは恐らく水死した。注記すべきは、それが必ずしもこの湖ではない場合があることだ。既に「穴」があるので、周縁から次々に集まって来る。割と離れている場合もあるようだ。

 この時から、「掬い上げられる者は引き上げよう」と考え、時々、ご供養に訪れることにした。

 具体的な方法は「対話」だ。湖畔に供え物をしてお焼香をする。線香が燃え尽きるまでの間、亡くなった母や親族の思い出話をした。残された親族がどれだけ悲しんでいるかを伝えた。

 そして、いつも通り「私に付いて来い」と告げた。もちろん、「二㍍離れて」が原則だ。手を掛けられると、思わぬ「障り」を貰うことがあるから当たり前だ。

 ⑨⑩は「旅先」フォルダに入っていたので、当時は認識出来なかったということだ。

 今は、きちんと私の胸付近に「女」が宿っていることが分かる。この影響で私の左腕が細くなったりなどの光学的影響が生じている。

 言いつけを守る者ばかりではないのは人間と同じで、気を許すと、私は悪影響を受け体調を崩す。もっと厳しく言う必要がありそうだ。

 

 ⑪は幾度も公開して来た画像だから、これを見た人も多いと思う。

 神殿の前には私一人。だが、私に取りすがる男女も居れば、それにムカデ行列のように従う亡者もいる。

 今にして思えば、これもN湖でのご供養と関係しているのかもしれぬ。  
 

 ⑫は何とも言えぬ不思議な画像だ。

 割と遠くから撮影したが、神殿の右前にいる男性は首から下が無い。景色に紛れたかと思ったが、背景の柱が見えているから、胴体が消失したということだ。

 当時はこの男性が幽霊なのかと思っていたが、そうではなく、男性自体は人間だが、前に幽霊が二体いることで、男性の胴体が打ち消されたのだろう。

 可視・不可視については、「この世」と「あの世」は相互に打ち消し合う面もあるようで、時々、人体の一部または全部が写真から消えてしまうことがある。

 単純に「角度によってそう見えた」だけの話ではないケースもある。

 

 以上を簡単にまとめると、この年の九月から十月頭までの流れは、「N湖でのご供養」と無縁ではなかったということだ。

 今、N湖を訪れても「助けて」という声が聞こえぬから、ある程度力にはなれたのかもしれん。ただ、別のポイントに人影は出るようだ。

 

 ちなみに、N湖での声は私の頭だけに響く声ではなく、物理的に誰にも聞こえる音だった。家人と一緒に訪れたことがあるが、家人も「何だか話声が聞こえる」と漏らしていた。

 

 さて、秋口の「あの世」話はこれで終わりだ。

 異変が起きたのはこの年がピークで、ひと月に数十枚も煙玉画像を撮影したと思う。

 今は数が少なくなったが、ただ単に「外出しなくなった」ということだけかもしれぬ。

 「旅先」フォルダの画像は再点検を続け、系統的な理解に繋げようと思う。

 

 注記)前述の通り、推敲や校正はしない。一発殴り書き。