日刊早坂ノボル新聞

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◎誰の身にも同じことが起きている

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「幽霊が寄り付く様子」の事例

◎誰の身にも同じことが起きている

 頻繁にお寺や神社に行き、周囲の景色や自分自身の姿を撮影する。

 とりわけ、神殿の前でガラス画像を撮影するのは、「光が二重に交錯する」という条件を求めてのものだ。日光の光が最も適しているのだが、これはおそらく波長の関係だ。

 1)照射光の強度と波長、が前提として関わっており、さらに、当たり前だが、2)そこに幽霊がいること、という二つの条件が重なって、初めて幽界の状況を垣間見ることが出来る。

 この場合、「鏡」の方がよりよく鮮明に写りそうなのだが、鏡に映ったことはゼロだ。

 「鏡の中に何かがいて」というホラー映画はよくあるのだが、実際には何も出ない。

 そもそも、「鏡」は幽霊が嫌うものの代表格でもある。

 玄関に、扉に向かうように姿見を置くのは、そこで身なりを整える意味だけではなく、外から入って来られないようにするためだ。ほとんどの幽霊は、人が迎え入れなければ入って来ない・来られないのだが、仮に入ったとしても、鏡があればそこから進んでは来られなくなる。

 

 幽界は、人間界(現界)と重なって存在しているのだが、お互いが認知可能な波長域の外にいるから、普段、意識することはない。生きた人間は、条件が合わない限り、幽霊を見たり、その声を聴いたりすることは無い。

 たまたま認識可能な波長域が広かったり、環境条件や装置(カメラ等)によって、可視聴域が近寄った時に、初めて異界の存在を目にすることが出来る。

 これは生きている人間の側でも、幽霊の側でも同じだ。

 このことは双方にとって、幸いなことだ。

 何故なら、もし日常的に外側の世界に接するようになったら、煩くてたまらない。

 実際には、そこいら中に幽霊はいるし、そういうのは人間の感情・思考を感じ取ると、すぐさま寄り集まって来る。

 

 さて、自分自身の周囲にある幽界側の変化を知ることは、幾らか役に立つこともある。

 生死に関わるような危機が訪れた際には、必ずその「死の匂い」を感じ取り、幽霊がわあっと集まって来る。もしそういう事態をすぐさま検知できれば、それを除去することで、死期をある程度遠ざけることが出来るようだ。

 これまで、幾度も書いて来たが、私は私を幽界に連れて行こうとする二人組の幽霊と、真正面で会ったことがある。心臓の治療の直後で、致死性の不整脈が発生した時のことだ。

 いわゆる「お迎え」「死神」という表現で言われている者と同一だろうと思う。

 この時、自らの死を回避できたのは、単なる「たまたま」だったのだが、それ以来、「死期を遠ざける方法」を自分なりに探索して来た。

 そのひとつが、「自分自身に寄り集まっている幽霊を見極める」ということで、その具体的な方法が写真撮影ということだ。

 カメラは人間の可視域より広範囲の光を捕捉し、画像に記録するから、本来、眼には見えないものを見ることが出来るのだ。

 

 こういう経緯で、お寺や神社でカメラを構えるようになったわけだが、これまで幾つか新しい発見があった。

 そのひとつが「時々、幽霊が周囲に集まり、体を掴んだり、抱き付いたりする」ということだ。

 この場合、少なからず「関わろうとしている」ことが明白だ。

 

 普通、幽霊を見聞きしても、何もしなくても構わない。ただそこにいるだけだし、基本的に相手には、貴方のことが分からない。いちいち気にする必要はないし、そんなことをしていたら、日がな幽霊対策ばかりしなくてはならなくなる。

 繰り返しになるが、「実際には、幽霊はそこいら中にいる」からだ。

 「通りすがり」であれば、対応は要らない。

 

 次に、幽霊の中には、貴方の存在を認め、見ている者がいる。

 この場合も、貴方がその存在に気付かぬのであれば、何ら接点が生じない。

 ただし、貴方の方も相手の存在に気付き、見てしまった時には、双方に接点が生まれる。

  死後に新しい目的や意思が生まれることは無いから、幽霊は「自己都合」で存在しているわけだし、かつての思いに囚われたままの存在だ。

このため、通常、幽霊が求めるのは、「自分を助けて欲しい」という理由からだ。

 貴方がちょっかいを出さぬ限り、祟りや恨みを向けることは無い。

 この場合の「ちょっかい」とは、必要以上に怖れ、殴り付けようとすることだ。

 人間の中には、幽霊を「恐ろしいもの」ととらえ、すぐに打ち払おうとする者がいるが、そのことは逆に「関りを持つ」ことになる。

 これはしてはならないことのひとつだ。

 いつも対処法として、「必要以上に怖れぬこと」「敬意を持つこと」と書いているが、その理由は、そうすればほとんど接点が生じなくなるからだ。

 もし、幽霊と接点が生じたなら、まずは「距離を置く」ことを心掛けるだけでよい。

 

 一般人の唱えるべきおまじない、お経、祝詞はこうだ。

 「わたしには助けられませんので、どうかわたしから離れてください」

 と、お願いすることだ。

 神職や僧侶は、お経や祝詞に念を込めて、力で幽霊を遠ざけることが出来る場合があるが、一般人は自分の言葉で伝えた方がよい。

 次に、それでは離れてくれなかった時の方法になる。

 その次のまじないはこうなる。

 「わたしは既にあなたのことを知りました。正体が分かりましたので、わたしから離れぬ場合は、ご神刀で切り捨てます。だから離れてください」

 さらに、気配が消えない場合は、「ご神刀」で自身の周囲の空気を切ることで、悪縁を遠ざけることが出来る。

 「ご神刀」は特別な物、例えば高額な日本刀等でなくとも構わない。新しい果物ナイフや彫刻刀みたいなものでよいので、日頃から神棚に備えて祈願していれば、それが使える。

 ここまでで、殆どの悪縁は身の周りから去って行く。

 

 私は元々、あの世との接点が生じやすい性質なようで、頻繁に幽霊が集まって来る。

 いつも画像の端々に異変が写るので、今はかたちがはっきりしなくとも、それと分かるようになった。このため、あまり幽界と縁のない人には、私の見る異変は殆ど認識できないだろうと思う。

 しかし、錯覚や見間違いがあっても、「早い段階で異変を察知し、もし悪縁が寄って来ているのなら、これを断つ」ことは重要だ。のんびり構えていると、何時の間にか深く入り込まれ、同化してしまう。結果的に、よからぬ衝動を抑えられなくなってしまう。

 1枚目の画像の左の女性、右の男性については、人影だと認識できる人が多いはずだが、こういう場合に対処することは、「家に帰ったら、すぐに二番目、三番目の対処(おまじない)をする」ということだ。

 幽霊は「鏡」を嫌うが、同様に「清浄な刃物」も嫌う。もし悪意を持って近づくものがある場合は、これを用いて遠ざけるとよい。

 

 私は「余命一年」の宣告から、もはや四年以上経過しているが、まだ生きていられるのは「迅速に対応する」ことを心掛けているからだと思う。

 もちろん、本来の寿命は既に終えていると思うので、この先はいつ死んでもおかしくないのだが、少なくとも一年前よりは、今の方がはるかに体調がよい。

 昨年は四五十㍍を歩くのがしんどく、途中で休み、息を吐いた。

 「お迎え」を目にしてからは、年間、少なくとも百五十日はお寺か神社に行き、「生き死に」の意味を考えている。

 それも、もう少し生きる時間を得て「可能な限り自分なりの作品を遺そう」と思うからだ。

 

 半裸の女や険しい表情の男、あるいは妖怪もどきが抱き付いているさまは、まことに不気味だが、これは私だけに起きているものではない。

 恐らく、同じことが誰の身でも起きている。

 幽霊が求めるものは「心を同調・同一化し、少しずつ合体してゆく」ことで、そのことは「自我を存続させたい」、すなわち「亡びたくない」という気持ちの表れだ。

 ひとが時として、やたら悲しくなったり、怒りを覚えたりすることは、そういう気持ちを「増幅させる力」が働いている。

 「今の自分自身は、果たして本来の自分なのか」について、よく省みることが必要だ。

 もし、たまたまこういう画像が撮れたとしても、狼狽える必要はない。

 前述の対処法を守り、冷静に処置すれば、ほとんどの場合、何も起きない。

 さも「不吉なことが起きる」かのようなことをいう者がいるが、「あの世」を恐怖の語り口で語る者は総て偽者だ。気にする必要はない。

 大体、自分自身で「幽霊(または霊界)を出して見せることの出来る」能力者のことは、これまで聞いたことが無い。

 

 一発書きで推敲なしなので、誤変換や誤表記があると思うが、今日のメッセージをひと言で取りまとめると「貴方にも同じことが起きているから、よく自省すること」ということになる。