日刊早坂ノボル新聞

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◎古貨幣迷宮事件簿 「二月の品評と雑銭の思い出」

古貨幣迷宮事件簿 「二月の品評と雑銭の思い出」

 抽選会登録の〆切が早くも十日後で、大慌てで出品登録を進めている。

 盛んに水面下で動いているので、ウェブを通じてのやり取りまで手が回らない状況だ。

 雑銭の動きが顕著で、このひと月で数十キロ旅立って行った。

 「古寛永や文銭に触らない」「奥州銭以外は極力スルーする」方針としたので、拾える品が多数あったはずだ。こういうのは売却の初めに言えば、売り文句になるが、もちろん、そんな見苦しい真似はしない。「付き合い」のつもりで買ってみたら、拾える品が沢山あった。そんな人にツキが回ればよいと思うので、黙って出す。  

 ネットの雑銭は一枚十円でも買い手が付かぬが、「きちんと残してある」品だと分かれば、「二十五円では競争相手に勝てない」と気付く。そこで枚単価が三十円、三十五円と上がって行く。これが何千枚、何万枚の桁になると、結果的に私の損失が減るし、皆が喜ぶ。

 これが「グロス勘定」だが、古銭界でこれを理解していたのは業者さんの一部と、他はごく少数だろうと思う。具他的には、個人的に興味の薄い背文銭や古寛永の母銭を目にしても、これを拾わずに「雑銭」のままで他に提供する。「拾った」と思った方が楽しいだろうから、もちろん、黙っている。

 

 1万枚の雑銭が、枚単価十円だとすると、処分すれば十万円だ。これが@二十五円なら二十五万円になり、十五万円の違いが出る。それなら、三万五万の母銭数枚をそのまま残しておけば、売り手も得をするし、買い手も喜ぶ。「見たカス」であれば、@十円だって買い手が付かぬから、結果的に滞貨になるだけだ。 

 NコインズOさんは「古寛永や文銭はやりません。そのまま出します」と断言していたが、その腹は業者さんらしく「グロス勘定」だった。

 収集家は目の前の小さなものを凝視する生き物なので、こういう勘定は出来ないらしい。多くの人は「コイツは分類を知らずに放出している」と思うようだ。こういうのは、それこそ「思う壷」なので、もちろん、これも黙っていた。「あれこれ拾える」と評判を立ててくれると尚更よい。

 実際、手元の雑銭の大半を買い取ったのは、最初に「付き合い買い」したうちの一人だ。

 すぐに気が付き、値段を上乗せして注文してくれたので、掲示を出さずに済んだわけだが、おかげで一文銭はほぼ販売終了した。ま、まだ家のあちこちに放り込んだままのが残っているとは思う。

F01、F02 永楽、洪武雑銭 

 脱線したので、元に戻すと、かつては中国銭の正体不明の雑銭なら、枚単価十円から二十五円。バリもののバラ銭なら七円。固まった状態なら十五円前後。状態のよい北宋銭なら二十五円前後と相場が決まっていた。

 これを銭種ごとに注文を出すと、銭種だけなら二十五から三十五円、状態を条件に入れると三十五円から五十円の枚単価だった。

 もっとも多いのは、「永楽通寶」「洪武通寶」「開元通寶」で、常に一定のリクエストがあった。

 中国銭としてバリエーションがあるし、鐚銭など銭種が多岐に渡っていたということによる。

 今現在は、北宋銭や明銭のコレクターが減少している筈で、銭種・状態を揃えて出したところで買い手が付くかどうか。それなら、委細不問のままで可という方針になった。

 実際の枚数は十数枚以上多いのだが、状態の劣る品が一定数あるだろうという見込みから、端数を控除したもので、もちろん、「あらゆる返品・クレーム不可」の設定となる。

 検品をしないので、詳細は不明だが、やはり面白いのは確か。こういうのを観るのが古貨幣収集本来の楽しみだと思う。

 

F03 和同枡鍵

 幾度眺めても、これは「江戸期の絵銭かつ母銭」だ。金色が黄色いと、盲目的に「大正絵銭」だと思い込む人が多いが、江戸の中期頃の絵銭は、地金が黄色い。状態がよいと「若く見える」のだが、「新しい」のではなく「状態がよい」ということ。

 江戸の古銭書にも拓が掲載されており、明治以降の写しが殆どない(見たことが無い)のは、「分かりにくかった」という理由ではないかと思う。和同に枡と鍵ってどういうこと?と手が止まる。

 これについては旧貨幣誌やボナンザを紐解けば、何かしら記載があると思う。蔵の鍵や米や酒を量る枡は「富の象徴」だが、やや回りくどい。

 江戸期の絵銭のポイントは、「古寛永の母銭に似た製作」ということ。これは「製作技術的に古い」と言う意味だ。

 輪側は不規則な横鑢(曲線)のようで、安政以降の製作だと思われるが、しかし、母銭であれば、最後は一枚ずつ手で仕上げるから、輪側だけでは根拠が薄い。もっと古いかもしれぬ。線条痕が曲がっているのは、鑢(砥石)に対し一枚ずつ当てたということだ。

 バリバリの江戸絵銭で、勉強になる。裏を見た時に「あ、古寛永(もしくは新寛永なら初期)のつくりだ」と感じる。 

 

F04 柳津三福神

 こと絵銭に限っては、江戸大阪の大都市に住むより、地方在住者の方が数段有利だ。

 大都市には全国から品物が集まり、個々の品から地域性を見取ることが出来ない。

 だが、これまで繰り返し記して来たとおり、絵銭は本来、「流動性が乏しい」という特徴がある。一度、入手した絵銭は、「常時懐中に保持される」ので、民間に眠っていた品が「どこから出たか」を調べることで、「どの地域に分布していたか」、あるいは「どこで作られたか」を知る手掛かりになる。

 そういう意味で、「地方の方が絵銭の調べと理解が早い」というわけだ。

 入札やオークションで品物を買い集めても、「物は入るが、知見が得られない」わけだが、それと似た状況が生まれる。

 さて、この意匠の「三福神」自体は、全国にあるのかもしれぬが、奥州では、製造拠点が決まっており、秋田か柳津がその代表地だ。赤黒ければ「秋田三福神」、黄色ければ「柳津三福神」だと思えば、大体間違いはない。もちろん、これはそれが江戸大阪ではなく、「奥州の民家から出た」という場合に限る。

 この品は、K村氏旧蔵品で、仙台領で出た品だ。輪に飾りが加わっており、まずは「柳津三福神」と見るのが筋で、そこから外堀を埋めるように調べるのが近道だ。。

 今は研究している人が少ないようで、ネットで「柳津絵銭」を検索すると、ここでの記録が出てしまう。

 ここは地元の人にぜひ頑張って貰いたいと思う。

 柳津(会津)は、奥州の絵銭の一大拠点で、盛岡と八戸(南部)、秋田と肩を並べる。

 時代的には明治に及んでいるわけだが、通貨と違い絵銭は、明治以降の作だからと言って、評価が落ちるわけではない。その品の持つ歴史的意味や工芸品・美術品としての評価が基準になる。

F05 柳津商売繁盛

 その柳津絵銭の代表銭種が「商売繁盛」だ。

 かなり古くから作られていたようで、詳細は旧「貨幣」などで調べるとよい。

 私も旧「貨幣」誌のコピーを揃えていたが、既に資料は他者に譲ったり、寄贈した後なので、正確を期して資料を紐解くという行為が出来なくなった。

 ま、自分で調べることだ。

 縁起の良い絵銭で、風格もあるため、かつては評価が高かったが、概ね収集家の蔵中に入ってしまったのか、今ではあまり見かけなくなった。このサイズなら、昔は二万以上だったが、鋳不足があり安価な設定とした。欠損と違い、鋳不足はさほど大きな瑕疵ではなく、製作をみるのによい見本だと思う。

 

F06 厚肉面子銭 駒引

 黄銅もしくは真鍮の絵銭(または玩弄)類は、新しいものばかりではなく、かなり古い品もあるので、細部を観察する必要がある。この品は面子銭で玩弄銭の類で、実際にその用途で使われたと見られる。

 固い地金だが、全体がすり減っている。

 輪側の仕上げが縦横斜めだが、地金が硬かったということかもしれぬ。

 南部絵銭にも黄銅銭はあるが、仕上げ方が違うので、他領のものだと思う。

 このため、私には判断がつかない。どちらかと言えば、明治末以降の気もするが、「そんな気がする」では話にならない。分らぬものは「分からない」とするのが科学的な姿勢だ。

 

F07 念佛 背絵銭

 背の絵柄は、かなり古くから知られた意匠で、決まった名前があるのだが、失念した。

 資料が無く調べられぬが、江戸の中後期の絵銭譜に掲載がある。それを記憶しているのは、その「南部写し」が存在するからで、銭譜未載の超絶希少品のひとつ。どなただったか先輩の収集品として一度見せて貰ったことがあり、以来ずっと探して来た。

 「北奥の写し」のような品を一枚選り出せたが、それっきり(→参考資料)。

 南部絵銭コレクターにとっては、夢の一枚だと思う。

 脱線したが、この品の方は、地金と輪側の仕上げから見て、明治後半以降の品だと思う。

 それでも、意匠として少ないし、やはり採用した絵柄自体がよい。

 「南無・・・」のこの書体も江戸期のものを踏襲している。

 

F08 大型七福神別銭

 四十年近く前に、たまたまOコインで高齢の収集家に会ったが、「この品と天保七福神は明治三十年台に初発が作られた」と教えて貰った。

 モチーフや意匠の配置などは、仙台大型七福神から着想を得たものだと思われる。

 これを踏襲して、大正以降にさらに大型の七福神銭などが作られたわけだが、市中で見掛けるのは、この品までだろうと思う。これを作成したいとは、仙台七福神銭がかなり希少だったことにもよる。

 小型銭では手作業の際に紛れが生じやすいが、これくりの大きさになると輪側の仕上げを観察するのに適している。明治の手動から発動機、電動グラインダの相違を観察するにはちょうど良いサンプルだ。

F09、F10 仙台大型七福神銭の写し (称「加賀出来」)

 技術的には明治後半以降の仕上げ方だが、実際に作られた時期は、昭和に入ってからだと思う。

 いわゆる「加賀出来」と称せられる品と同じ系統に属する。

 銭径が著しく縮小するが、これは粘土型か石膏型を使用したためだ。固形の型を使う場合、乾燥のさせ方により、型自体が縮小することで銭径にばらつきが生じる。

 この量銭はいずれも、仙台七福神銭の通用銭を基にしており、「いずれかが片方より先または後」という関係にはない。同じ素材で、縮小率が変わっただけ。

 古い古銭書を読むと、銭径の縮小について、「鋳写しを繰返して、どれくらい小さくなる」と書いたものがあるので、つい、銭の大→小の変化を、つい「鋳写しの際の湯縮による」と見なしてしまいがちだ。

 だが、それは「型づくりの手法が同一の場合だった時」のことで、実際には「型そのものの縮小」という要因が湯縮よりも大きく作用する。

 「加賀出来」の銭径がやたら小さいのは、鋳写しを繰り返したためではなく、粘土型か石膏型を使用し、かつ「十分に乾燥させる前に使った」ことによる。

 「より小さい」品が「より後で作られた」品だという先入観は役に立たぬので、捨てる必要がある。

 銭径などは、それひとつで何かを語れる素材ではない。

 

 なお、以上のことは八戸銭の観察で分かったことだ。 

 八戸銭には、寛永銭の一般的な規格を外れた縮小銭が存在するが、鋳写しを繰返してそうなったのではなく、一回でそのように変化した。これは当地には良い砂が無く、山砂を使わざるを得なかったことが主要因で、なるべく良質の母銭を作るためには、粘土型を採用するしか手段がなかったということ。

 粘土型は回数が効かぬので、沢山の型を作り、作成直後に急いで乾かして使う。実際に実験してみたが、型自体が著しく縮小した。

 この品は輪側線条痕(仕上げ)を勉強するのに、非常に役に立つ。時代考証をしてみたいのなら、一枚は入手して手本にすべきだ。

 

 ちなみに、「加賀出来」という北陸の地名がつけられていることについて、私は「中国製」かと疑っていたが、「加賀出来」自体は割と前から存在していたようだ。

 北陸を疑ってしまうのには、次のような経験があるためだ。

 以前、埼玉から群馬、山梨と旧道を辿って、沿道に会った古道具店に順々に立ち寄ったことがあるが、どの店でも永楽銀銭が置いてあるのに驚かされたことがある。

 街道沿いの店に四五枚ずつ永楽銀銭が並んでいる。「こんなのアリエネー」と思ったが、道を辿って行くと、北陸まで繋がる。北陸には中国や北朝鮮の貿易船が行き来していたので、そこで「なあるほど」と思った次第だ。(真実かどうかは知らん。)

 成田周辺でも同じようなことが起きているかもしれぬ。

 ただ、一度だけ「選り出し」で永楽銀銭を拾ったことがあるのだが、その品にはきちんと背に砂目があった。それを見て、何となく嫌気が差し、銀銭を総て手放した。

 

F11 天保七福神 二枚組

 この品にはこんな思い出がある。

 ある時、収集の先輩がやって来て、「これを買っとけ」と上の品を出した。

 前項で記した通り、Oコインで高齢の収集家(失念)に「明治のもの」だと教わり、かつ実際に下の品を持っていた。

 先輩が「一万五千円で」と言うので、咄嗟に「コイツは飲み代でも都合しに来たのか」と思った。ま、天保型絵銭の古い品(古鋳品)なら、そこから上の値段が相場だ。

 でもこれは明治三十年代以降の品だわ。

 だが、地金はともかく、仕上げ方を見ると、手持ちのものとは少し違う。

 「ここは勉強して置くべきだ」と思い、それを引き取った。

 先輩は、たぶん、帰り際に赤提灯に寄ったと思うが、これがきっかけで、DMSを買って観察するようになったから、今思えば勉強代としては安かったと思う。

 やはり持つべきは後輩を嵌めるせこい先輩だ。それが教師でも反面教師でも、学びがあればそれでよい。

 元々、ゼニカネには無頓着な方で大雑把なのだが、気にする人は気にするようで、収集家には高いの安いのと騒ぐ人が結構いる。今のゼニカネ次第は古貨幣を量る物差しにはならんと思うが、どんなもんだろ。

 さて、仕上げ方が違うのは、最初は試行錯誤的に作って差が出たか、あるいは複数回作ったかということだろうと思う。

 

F12 二十一波写し

 雑銭の出荷が終わったが、今回の注文はほぼ一文銭だった。当四銭の袋を除外する時に、たまたま目に付いた品だ。地金が硬そうに見えるので、「焼け明和」だろうと見ていたが、念のため、輪側を観察すると、焼けでは出来ない筋が走っていた(線条痕)。

 そもそも、銭径が明和の標準サイズよりもかなり小さい。

 「縦に鑢を使った後で、改めて横に研磨している」ところは、割と早い段階で作られた品という意味だろうと思う。それで配合が幕末よりも固い。

 文政の末から天保年間には、銭の密造が盛んに行われており、赤く柔らかい金質ばかりではないわけだ。二十一波写しは俯永や小字よりも少ないので、一定の人気がある。

F13~F16 南部鉄絵銭

 銅の絵銭には見栄えや風格があるわけだが、鉄絵銭にあるのは「こころ」だ。

 南部領では、密鋳銭座だけでなく公許の銭座でも、絵銭類を作成している。

 

 新渡戸仙岳の『岩手に於ける鋳銭』には、虎銭や大黒銭について「当百銭を鋳造した時に出来る枝の部分を再利用した」と書かれている。

 この場合、すぐに疑問に思うのは、「枝の部分なら、再利用できるのでは?」ということだ。

 もう一度溶かして、当百銭の素材に出来る筈だ。

 だが、鋳銭は職人の稼働を少なくするために、材料を揃え、用具を完全に整えた後で、短期間のうちに一気に作る。一工期は、短ければ一旬(十日)で、概ね二旬(二十日)程度だ。

 途中の段階では、枝の部分を再利用するだろうが、銭づくりの最後には、再利用しない枝が残る。

 そこでそれを使った、ということだ。

 「当百銭を作りながら、絵銭も作った」という意味ではない。

 鉄絵銭も同じ理屈で、鉄銭を鋳造し、それが終了する間際になり、枝部分を再利用する手段としたのだろう。

 前回記したと思うが、鉄の絵銭は「売るためではなく、自分たちの信仰や祈願のため」に作成したものだ。製作は見すぼらしいが、やはり「こころ」がある。

 北奥の人は鉄製品に馴染みがあるので、銅絵銭以上に鉄絵銭に愛着を覚える人が多い。

 私も絵銭の神髄は鉄銭だと思う。もちろん、軽米大野のたたら鉄がそれだ。

 この鉄絵銭に興味を持つ人は、地元中心の人だろうから、個々の解説は不要と思う。

 鉄はそうそう簡単にコピーが作れぬから、従前は偽物の心配がなかったのだが、近年はそれに挑戦する品が出てきたようだ。だが、今のところ、幕末明治の品とは雲泥の違いがある。

 製法が違えば、出来栄えも変わって来るし、そもそもコンセプト自体が理解できていない。

 今回はかなり買いやすい値段設定とした。

 

 注記)時間が限られるので、一発書き殴りで推敲や校正をしない。誤記や不首尾、記憶違いがあると思う。日記の範囲内と言う解釈で読まれたい。

 

注記2)名称を忘れた絵銭に関する「写し」の現物があったので、追加掲示する。

 南部写しが存在するようなので(超珍品)、今一度蔵品をチェックすると良い。

 江戸期の古鋳品でも下値一万からだが(少ない)、南部写し(栗林などの座銭)であれば下値十万がスタート価格になる。