日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎一年前には

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二〇一九年四月八日撮影

◎一年前には
 画像はほぼ一年前、四月頭にO町の温泉で撮影したものだ。

 まだ、あれからたった一年しかたっていないことに、改めて驚く。

 昨年はすこぶる体調が悪く、一日一日をやっとの思いで生きていたから、時間の経過が分からなくなっていたようだ。

 この旅館には「交流点(幽界との)」があるから、時々、異変が起きる。

 はっきりした声が聞こえることもあれば、写真に人影が写ることもある。

 ただし、世間で言われるような怪談めいたことは起きないので、念のため。

 「心霊」がどうの「憑依」がどうのと、恐ろしさのみを強調するのは、認識自体が誤りで、そもそも死後をまるで観察していない。

 

 廊下を歩いている時に煙玉が写っていたが、光の影響も、湿気の影響も少ない場所だから、たぶん、私由来のものだ。

 いつもじゃらじゃら出ているらしく、それを頼りに幽霊が集まる。

 二枚目は、見える人には鮮明に見えるが、見えない人にはまったく分からない。

 見えない人が七八割だと思う。

 フラッシュが光っているところに私がいるのだが、その後ろに白い着物を着た女性が立っている。前髪は肩までで、後ろは見えないが、背中で束ねているのかもしれん。

 この時も背中に触るくらい貼り付いて立っていたのだが、時々、同じように身を寄せている。私の肩に手を添えていることもある。

 何をするわけでもなく、ただ寄り添っているのだが、敵ではないようなので、以後は「御堂さま」と呼んでいる。 

 傍にいてくれるとむしろ心強い。

 もちろん、「守護霊」などというものではない。そもそもそういう考えは、人の想像や願望から生まれたもので、要するに作り話だ。こういうのをさもありそうに語る者も、当然、偽者ということ。

 もし幽界の住人が生ける者に関わり、守ってくれようとするなら、この世はもう少しましなものになっている。「幽界」に社会は無く、生者に関心を持っていない。

 幽霊の心にあるのは、自身の感情だけ。

 

 もちろん、「御堂さま」が手を出して助けてくれることはないのだが、常に私のことをじっと見ているようだ。悪意はなし。

 そこで、神社猫のトラと一緒で、この「御堂さま」も仲間だと見なすようにした。

 最近は姿が見えぬが、「御堂さま」が現れるのは危機に瀕している時なので、姿が見えぬことは「今は難が少ない」という意味なのだろう。

 顔の表情が見えぬが、こういう場合は画像の別の位置からこちらを見ていることが普通だ。目立たぬところに視線(多くは左眼)が出ていたりする。