日刊早坂ノボル新聞

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◎寛永当四銭「南部写し」の実際

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南部写し

寛永当四銭「南部写し」の実際

 家に居る時間が長くなった人が多いだろうから、気を散らせるように古貨幣の話を増やすことにした。

 さて、密鋳銭を観察する時には、「型」を幾ら眺めても、さして新しい知見は生まれない。

 型からは「誰が」「何時」「どのような手順で」作ったか、という情報は得られないのだが、工法に着目すると見え方が若干違って来る。

 

 画像は、いわゆる寛永銭の「南部写し」だ。

 密鋳銭のうち、赤い地金で粗雑な作りのものをこう呼ぶが、実際のところ、岩手から青森秋田など旧盛岡・八戸の南部領内で散見される。

 密鋳銭の大藩は、明和を台に母銭を作ったから、文政銭と並べても大きさにそれほど違いはない。金色も文政赤銭にそっくりだ(図その1)。

 11から15は、いずれも密鋳銭だが、遠目では文政銭とほとんど変わりない。

 もちろん、はっきりした相違点もあるが、そのひとつが輪測の加工の仕方だ。

 明和、文政期では輪側を仕上げるために、逆蒲鉾型の粗砥に「金属棒に差した寛永銭を前後に走らせた」。そのことで、輪側には縦方向の線条痕が残っている(縦鑢)。

 なおこの場合の「縦」「横」とは、寛永銭を正面に正置した時に、その線条痕が示す方向のことを指している。輪に直角であれば縦、輪に沿って周回するのが「横」だ。

 輪側の画像を見ると(図その2)、細かくてよく分からないので、マイクロスコープで拡大すると、線条痕(鑢目)は、ものによってまちまちである。

 これは端的に言って、「使用した装置が違う」ということを示すものだ。

 

 輪側の仕上げには、多く粗砥を使うのだが、この形状や大小、それを支える装置が、鋳銭主体や工期によって違って来る。

 江戸本座銭で言えば、明和や文政期では、逆蒲鉾型の粗砥に棹銭を前後に通すことでバリを取り、かたちを整えた。このことが原因で「縦鑢」の線条痕が生じたのだ。

 これが安政期になると、棹銭を固定し、これを粗砥に押し付け、銭を回転させることで輪側を処理した。このため、線条痕は回転の向き、すなわち横鑢になったのだ。

 (以上はあくまで「原理」を言うもので、実際の装置を愚弟的に示すものでは無いので、念のため。)

 

 さらに称「明治吹増」銭になると、輪側は縦一方向ではなく双方向になる。これは輪を眺めた際に、左右から縦向きに二通りの線条痕があるということだ。

 線が揃っていないことから、1)鑢(粗砥)が逆蒲鉾型ではなく平面であり、その上で前後に棹銭を動かした、2)銭と銭の間に隙間があり、前後に動かす時に銭が斜めになった、のいずれかの違いがあると考えられる。

 以上は、銭を縦向きに動かして、バリを削った、という点で共通点がある。

 

 この仕上げ工法が一変するのは安政期で、この時には「横鑢」に工法が替わっている。

 安政銭は薄く軽量な者が多いのだが、縦方向に削ろうとすると、銭が折れ曲がったり欠損が生じ易くなったりする。このため、棹に差した銭を粗砥に押し当て、棹銭を回転させる方法を取ったのだ。出来銭の破損を防ぐための目的により、装置を替えたということになる。

 明和・文政と安政で明瞭に異なるのは「穿」の形状だ。前者では金族棹を通せば用が足りるのに対し、後者では銭が動かぬように固定する必要がある。よって、前者では穿が丸くなっているものが散見されるが、後者では四角に整えられている。

 

 江戸本座銭の仕上げ方は、当然、密鋳銭にも反映される。効率的に鋳銭を進めるために、官製品を見て、それを真似るためだ。

 そうなると、輪側の仕上げ方にも、ある程度、製造時期を示す情報が含まれる可能性があるということになる。

 明和・文政の縦鑢と安政の横鑢には歴然とした相違があるから、各々に準則していれば、その時代に「近い」ということになる。

 明治吹増は、「明治」とあるが、「実際には文政」とする説もあるので微妙なところだが、作業的には横鑢の方が簡便だから、ひとまず明和・安政・明治吹増・安政という流れにして置く。時代を嵌め込むのではなく、あくまで「似ている」と見なす段階だ。

 

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 この見方に従って、「南部写し」を眺めると、11から13がロ)「縦斜め双方向」、14が「横+横斜め」。15が「横斜め」となる。

 密鋳銭独自の方式は「横斜め」の線条痕だが、これは金属棹に差した銭を固定し、「手に持った鑢(粗砥)で仕上げた」ため、不揃いになったということではないかと思う。

このことで、(イ、ロ)と(ハ、ニ)、または、イ→ロ→ハ→ニという区分を想定することが出来る。

 まず文政・天保期の飢饉がひとつの動機付けとしてあり、次に南部地方で鋳銭が始まる慶応期辺りにも誘因がある。

 

 以下は私見である。

 これまでは地元の収集家も、「ロのみを浄法寺銭」とし、他は「南部写し」と見なすことが多かった。ロは南部天保(浄法寺山内銭)と製作が完全に一致するからだ。

 しかし、この地金は基本的に尾去沢の銅を使ったもので、幕末にまとまった銅を仕入れる先は、事実上、尾去沢だけであった。この時期の「赤い密鋳銭」は概ね浄法寺銭だろうと思う。

 輪側の線条痕(鑢)に相違があるが、これは鋳銭時期の違いではないか。

 

 ここで初めて、『山内に於ける鋳銭』を紐解くと、あまり鮮明には書かれていないものの、文政・天保期の飢饉の影響を受け、盛岡藩では銭の鋳銭が幾度か企画に上ったようだ。

 寛永銭背盛の稟議銭(玉鋼)も浄法寺から出ている。

 鋳銭について詳細に書かれているのは慶応期だが、それ以前に鋳銭(銭種不明)が試みられており、次に当百銭、鉄当四銭が別途製造されているようだ。

 慶応期以前なら、天保銭や寛永銭の背盛、仰宝鉄銭が「鋳造される前」の銭種ということになるが、これには一般通用銭から材を取る他に方法が無い。

 「山内天保と近似した金質」で「双方向の縦鑢」なら、浄法寺山内系のものと見なして良いのではないだろうか。

他に数十万枚から数百万枚程度の銅銭を作れる者がいたかどうか。

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増郭銭なのか?

 次に目を引くのは14だ。14は郭が膨れ上がっており厚い。

 たまに、鋳潰れや打撃によって書くが潰れたものがあるが、そういう場合は穿が歪んでいる。当品は穿が形を保っていることと、背面の核に筋が見えることから、「増郭」したものではないかと見られる。

 これには、類品を集め、検証していく必要があるのだが、もし増郭が確認されると、当該品と同じ特徴を持つものは「浄法寺銭」と確定出来る。

 当百銭を含め、内郭の内側を広く加工したものは、「浄法寺にしか存在しない」からである。

 しかも、面白いのは、既存の増郭銭が「称浄法寺銭」だということだ。

 称浄法寺銭の完全仕立て・小様銭には、明らかに郭を加工したものが複数見られる。

 と、今回はここまで。

 

 型を見比べるより、はるかに面白いでしょう。後は若手の元気の良い人に。

 いつも通り、一発・書き殴りで推敲や校正はしません。