日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎着物の女(591)

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令和三年七月二十六日撮影

◎着物の女(591)

 今月の月末日は27日だったので、26日中にあれこれと支払いを済ませた。

 帰路には神社に参拝。

 やはり「秋」が始まっていたのだが、帰宅後、ウェブに記録を残すかどうか逡巡する。

 当人にしか分からぬ内容であれば、その記録に意味があるのか?

 そういう疑問があるからだ。

 

 だが、そういう発想は「受けるかどうか」という思考と裏表だ。

 自身を基準に取り、そこで起きた出来事を忠実に記す方がよい。

 よって、詳述は避けるが、「こういうことが起きた」と記して置くことにした。

 いずれ息子にも私と同じことが起きて来る。

 他にも数人だとは思うが、同じ世界を見ている人がいるので、そういう人の役に立つかもしれぬ。

 

 画像自体は曖昧ではっきりしない。「気のせい」にも届かぬ。

 だが、当事者の私は立場が違う。画像の議論などどうでもよい。

 その場で「直接目視している」という事実があるから、他の者にどう見えようが関係がない。

 

 いつものように神殿のガラスの前に立つと、誰もいない筈の内門の下に人が立っていた。

 白っぽい着物を着た「女」が私の後ろにいて、こっちを見ている。

 (後で分かったが、薄い草模様の柄が入っていたようだ。)

 すぐに赤外線カメラを出し、同じ位置で撮影したが、気配のみで姿をきっちり捉えることは出来なかった。「何かがいる」と見る人は少数だろうが、それはその場にいないから。

 理屈は分からぬが、きちんと目視する時には画像に写らぬことが多い。

 「誰もいないのに画像にだけ写っている」というケースの逆だ。

 

 赤外線カメラを使うと写る頻度が高まるが、幽霊は赤外線を放っているわけではないように思える。赤外線はいわゆる熱線だが、幽霊は冷たいので、要するに「影が映る」ということだ。そこだけ周囲より冷たいので、暗いシルエットが抜けるように写る。

 よって、周囲が冷たい時には、赤外線カメラでは姿を捉えられぬのではないかと思う。

 実際、夜に赤外線カメラで撮影しても写り難い。冬も同じ理屈で写り難い筈だが、周囲の熱源との落差があれば話は別だ。人体(体温)とか、暖房などの影響で温度差が生じている時には写りやすくなる。確かに冬の幽霊画像は、人間のごく近くで撮られたものが多い。

 この辺の仕組みはまだ分からないから、少しずつ確かめて行く必要がありそうだ。

 

 さて、「着物の女」に戻る。

 神殿の前に立ち、ガラスの中にこの女を発見したのだが、思わず「スゲーな。はっきり見えてら」と口にした。

 何百回もこれに類する経験を経て来たので、さほど驚かなくなっているのだが、しかし、目視ではっきり見えると、少しく感動する。

 「これは現実なんだな」

 振り返って見るが、やはり誰もいない。

 何年間も「着物の女」について記述して来たが、同じ女だと思う。令和元年の春先には頻繁に姿を見せていた。

 「首から上が無い」ことが多いから、かつての私(の一部)に関りを持つ者かもしれぬ。

 

 「問題ははっきりした証拠になるかどうかだ」

 通常撮影と併せ何枚か撮影したが、あまりはっきりしない。

 まだ暑い盛りだし、そこは十一月くらいになれば、条件が良くなると思う。

 

 イリス(女の悪縁)も出始まっていると思う。幽霊は原則、思考能力を持たぬのだが、複数が凝り固まると、「知恵が働く」ようになる。

 このため、巧妙に自身の姿を隠すようになる。

 コイツのことは、よほど経験を積まぬと、認識出来ない。

 現実にこういうヤツがいると分かるまで、何年もの時間を要した。

 

 最初は手の先が見えるだけで、これに着目すると、徐々に色んな体(の一部)が見えるようになる。

 そのうち、相手も自分が見られていることに気付く。「お前。私が見えるのか」と言わんばかりの視線を送って来るようになる。

 こちらも「ちゃんと見えているからな」というメッセージを送るわけだが、これも重要な要素だ。

 これは野球でピッチャーが時々、ランナーのことを「眼で制する」のと同じ効果を持つ。「アウトにするぞ。出るなよな」という意思を示すのは、抑止力になる。

 こういうのは、普段から練習して置かぬと、いざ自分に関わる者(お迎え)が現れた時に、それを制止できない。

 幽霊には人に対するのと同じように丁寧に接するわけだが、相手を認識したうえで、間にきちんと線を引き、「自分の領域を出るな」というメッセージを送ることが必要だ。

 

 「着物の女」は、私と経緯がある者だと思うが、敵では無いと思う。

 あるいは助けて欲しいのか。

 私は二三年前とはもはや別人だから、いっそう寄り付くようになる。

 

 ちなみに、異変を検知する時のやり方はこう。

1)光と影の関係に着目する。出来ぬ筈の影が出来たり、光の筋が入ったりする時には注意が必要だ。人の姿の有無はあまり関係がない。

 「見えぬ」ことを前提にすればよい。

 

2)理由なく景色が歪む。ガラスは光が交錯するので、よく観察する必要があるわけだが、面に歪みがあるわけではないのに、景色が歪む。

 これは概ね「何か」が通っているから。この場合の「何か」とは「霧(幽界の)」や「煙玉」、「幽霊などだ。」

 

3)「視線」に気を配る。

 これは感覚なのであやふやなものだが、常に「自分を見ている」視線があるかどうかを観察する。

 群衆の中に一人だけ自分に関心を持ち見ている者がいれば、誰とは分からぬまでもそれに気付くものだ。「視線を向ける」のは関心(または魂胆)があるということ。

 この関心の質で、対処が必要かどうかが決まる。

 殆どの場合、「通行霊」だから、連れて歩かぬようにすればそれでよし。

 

 先んじて手を打てば、どうということも無いので、何ら怖れる必要はない。

 人間に接するのと同じ振舞い方で良い。あとは対幽霊の三原則に従うこと。