日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎これはソウルメイトなのか(566)

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令和三年二月二十二日撮影

◎これはソウルメイトなのか(566)

 21日は少し実験を行った。

 一月と二月の両方で、私に「危機が来る」ことを知ってはいたが、どのようなものか想像がつかない。ま、最も関係がありそうなのはコロナ感染だから、一月は極力、外出しないようにしていた。ここは単なる想像だ。

 ただ、本当のところは分からないから、ほんの少しだけ足を踏み出すことにした。

 21日には外出し、知人と会ってみることにしたのだ。

 そうは言っても、もちろん、電車には乗らず、外食もせず、お弁当を持参した。

 小人数で数時間ほど打ち合わせをしただけだ。

 

 だが、何かしらの示唆がきっとある。

 そう考えて、翌日の今日は、早々に神社に向かうことにした。

 もし何かが現れるとすれば、私に関わる「女」か、知人に関わる「男」だ。

 知人の一人は、背後に「男」が立っており、日頃の暮らしや生き方に影響を与えている。

 (もちろん、その当人にこれを話したことはない。こういう話は、拒否反応を示し受け入れられぬ人が多い。瞼を開き、耳を傍てる準備のできた人でないと説明の意味がない。)

 

 神殿前で数枚撮影し、早速、駐車場で開いて見たが、大きな異常はない。

 画像の場合は、「歪み」を探せばよいので、帰宅してから点検することにした。

 ちなみに、直接会う場合に気をつけるのは「視線」だ。人込みの中から「誰が」が見ていると、その視線がどこから出ているのかは分からずとも、「視線」の圧力を感じるものだ。

 パソコンで開くと、割合早く画像の歪みが見付かった。

 最初の画像では、石柵の上に「女性の顔」が出ている。この位置に太い樹は無いから、そういう影が出来ることはない。

 ただ、かなり不鮮明だし、これが女性の顔だと分かるのは、私だけかもしれぬ。

 一目で分かったが、私にとっては知己だから、すぐにそれと分かる。

 

 二枚目では、ガラスの正面に参拝客の影が映っていたのだが、その後ろに白い着物(かガウン)を着た人影がある。

 着物は割合はっきり見えているのだが、柱を隠しているので、「柱の前にいる」ということだ。

頭部はシルエットだけで、顔が無い。顔はもはや見せているから、出す必要が無かったのだろう。

 ここで「ピンクの服を着た参拝客の後ろには、この私がいた筈だ」と気付く。

 すなわち、「女」は参拝客の後ろにいる私の直後にいた、ということだ。

 これが他の幽霊なら、少しくぞっとする話なのだが、しかし、この「女」のことを私は知っている。

 参考図の通り、時々、背後に現れる「女」と外見が同じで、私が「御堂さま」と呼ぶ者ときっと同一だろうと思う。

 「御堂さま」は、私が窮地に立つ時に傍で見ていることがある。

 ここで最初の画像に戻ると、どことなく心配げな表情に映る。もちろん、背景や状況は総て想像だから、これも本当のところは分からない。

 

 他の人は、そこに「女」がいることをほとんど検知できないと思うが、そういうケースは「先方にははっきりしたメッセージがある」ことが多い。伝える相手が決まっているので、それ以外の者に見せる必要がまったく無い。

 確かにメッセージは受け取った。やはり三月の上旬くらいまでは、私は極力、外出を避け静かにしている必要がある。

 ただ、今回、試験的に外出してみたことで、「既に決定的なミスを犯した」というケースもあり得る。一週間後には感染し、斃れているかもしれぬ。

 

 だが、それはそれで「宿命」だと思う。 

 この「御堂さま」と私は結びつきが極めて強い。

 あの世で共に過ごす関係、すなわち本当の意味での「魂が結びついた相手」なのかも知れぬ。パートナーが待っていてくれるなら、死後の不安は無くなる。

 こういう幽霊は、今生での私の生き方に意見をすることも無ければ、手を出して助けてくれることもない。ただ、心底より案じ、見守ってくれていると思う。

 

 二枚目(上の五枚目)の「着物の右肩」については、それと察知できる人が割合いるのではないかと思う。

 悪縁(霊)と違い、こういうのに直面しても、まったく恐怖感を覚えない。何とも言えぬ不思議な心持ちがする。

 先方が用事があるのは私一人。よって、他の人にとっては「(私の)想像や妄想」と同じ意味になる。

 もちろん、私にとっては全然意味が異なる。「何故」「どうして」という答えが得られ、想像と現実がきれいに繋がる。