日刊早坂ノボル新聞

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◎霊界通信 R060512 「声が聞こえる」

◎霊界通信 R060512 「声が聞こえる」

 ひとつ曲がり角を曲がったのが今年の一月で、小鹿野町で「お稚児さま」の姿を画像に納めた時のことだ。

 赤いちゃんちゃんこを着た女児は、既に平成31(令和元)年の1月には姿を見せていたのだが、今春までその所在に気付かなかった。

 どういう条件下でそれが起きるのかはいまだに分らぬが、「この世」と「あの世」のダイヤルがピタッと合う瞬間がある。これがその時だったようだ。

 ちなみに「この世」と「あの世」は重なって存在しているが、しかし相互に独立した世界が展開されている。アウトラインは非常に似ているが、そこに広がる「各々にとっての世界」は、かなり違う。

 普段は接点がほとんどなく、互いにその存在を認識することがほぼ出来ない。

 だが、断片的な情報は漏れ伝えられて来る。

 物音や声がその一つで、発生源がない状況で、音もしくは声が響くことがある。

 

 「お稚児さま」の表情は、父や祖母のそれによく似ている。

 何か元からの縁者なのか、あるいは父や祖母そのものなのかと思うこともあるが、起源自体は正確に知る必要がない。

 「お稚児さま」を眺めると、心が安らぐが、ただそれだけで十分だ。

 そこで、画像を出力し、家の机や病院のベッド脇に、写真を置き、時々それを眺めることにしている。

 

 さて、今日の本題はここから。

 最近、この写真を眺める度に、これまでとは別の「かやかや」という声が聞こえるようになった。

 秘密をひとつばらすと、画像を見て「ここに女がいて」などと記述することが時々あるが、これは画像の中のかたちを見て言っているのではない。そこから何か「声」のようなものが聞こえるから、その声によって「女」だとか「子ども」だとかを判断している。

 現実の「声」であることもあるのだが、それだけではなく、たぶん、「感情の波」のようなものではないかと思う。

 「こころ」は波のような性質を持ち、音のように力学的な作用をもたらす。同じ波長を持つ受け手が居れば、共鳴するということだ。

 

 「声」の主を探るべく、一月の画像を見直すと、どうやら左奥にいる女のよう。

 女は髪が肩くらいまでの長さで、白い着物を着ている。前にも記したと思うが、その着物は左前だから、たぶん、棺桶に入れられた時にはまだ生きていた。仮死状態だったというわけだが、埋葬後に亡くなったので、その服装になった。

 すると、この女を「前にも見たことがある」と気付いた。

 平成31(令和元)年だから、既に六年前だ。同じく小鹿野町の同じ場所で撮影した画像の背景に、この女が立っていた。

 これが人影で、かつ女だと認識出来るのは、その当時から「声」が聞こえていたからということだ。

 ちなみに、この温泉旅館では、あの世と繋がる機会が割と発生しやすいようで、時々、入浴中にも「かやかや」という話し声が聞こえることがある。

 私だけでなく家人も聞いているから、現実の音として声が聞こえることもあるようだ。

 

 令和元年と、今年の一月の「白い着物の女」は、たぶん、同一の者だと思う。

 かつては数十㍍後方にいたのだが、今年の一月には、間合いが十㍍程度まで近づいた。

 繰り返し、同じ場所を訪れるうちに接点が生じ、女の方が私を認識するようになったのだろう。女には何か訴えたいことがあり、近づいている。

 

 現在、私が台所に立っている時に、すぐ隣の手の届きそうな位置に「何者かに立たれる」ことがあるのだが、まだ正体が分からない。気配だけで声を出してはいないからだ。

 だが、いずれは何かを語るだろうし、声を出せば、何者かが分かる。

 今のところ、隣りに立つのは「白い着物の女」ではないかと思っている。