日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎霊界通信 「四月十九日のセルフチェック」

霊界通信 「四月十九日のセルフチェック」
 最寄りの八幡さまにセルフチェックに行った。
 この日はあまり響かぬ日だったようで、声も触感も左程感じない。
 画像を点検したが、前後の景色に無いものがいくつか出ていたが、はっきりと「これはこういうもの」と推測出来るものはない。
 ま、こういう日もある。

 ただ、三枚目の画像の右側に眼が開いていたので、異変が現れようとしていたと思う。煙玉が重なっているので、拡大すると逆に見え難くなるのだが、景色の前後にこれと見紛うものはない。
 女性の眼で、嫌な感じが無いのは、私サイドの者だからだと思われる。
 巫女さまか、それに近い者ではないか。眼から受ける印象は、小鹿野の旅館の窓に出た眼とよく似ている。

 最後の画像では、右脚に前からしがみ付く者(たぶん男)がいて、これが原因で私の右脚が画像から消えた。直前に立たれると、光の波の相殺作用なのか姿が消えてしまうことがよくある。
 だが、私とその男の間に子どもがいると思う。
 女児でおかっぱ頭だ。
 となると、すぐに「お稚児さま」のことが思い浮かぶ。

 私はそもそも神霊体であるうえに、一度死んだこともある。外に出る度にぞろぞろと背後に良からぬ者を引き連れて帰ることになる。だが、いつも仲間がぎりぎりのところで守ってくれて来た。

 御堂観音の時の「子どもの声」も、その頃には既に「お稚児さま」が見守っていてくれたのかもしれん。

 帰宅してすぐにジュースを供え、「いつも傍にいてくれて有難う」とお礼を伝えた。
 「生きている間も、さらに死んでからも俺は独りではないや」
 死出の山路の向こう側にある怨霊の世界に迷い込むことはなさそうだ。
 このことを実感すると、ぱあっと胸に青空が拡がる。

 ここではっと気が付く。
 もう一人の「お稚児さま」の方もなくてはならない存在だった。すぐに「こりゃスマンでした」と謝った。

 

 ちなみに、この神社の境内を縦断するように、「通り道」があるようで、その上に立つと、あの世の住人がぞろぞろと近寄って来るようだ。今後はその検分も心掛ける。

 ちなみに、さすがに神社の境内で、寄り憑いたように見えても、あまり悪さを働く者はいないようだ。