◎夢の話 第1127夜 子どもたち
十五日の午前四時に観た夢です。
左右の眼の視力差が著しく、景色の概要は分るが、両目を使う必要があるケースはよく見えない。文字など細かいものはダメで、また遠くを見る時も左右いずれか片方で見るから遠近がよく分からない。
結局、左目の手術を受ける前と大差ない状況だが、それもその状況に慣れることで、不都合は減る。スマホはダメだが、PCなら文字を拡大して見ればよいし、景色の方は遠くを見る練習をして慣れれば問題はない。
そこで暇を見つけて、高台に行き、遠くの景色を眺めることにした。高い場所から、遠くの山々や街の様子を眺める。
この日も山の上から四方を眺めていた。
最初に富士山や、その手前の山々を眺め、次は眼を近くに転じて数キロ先の町の様子を眺めた。
次に一キロ下の小さな遊園地を見たが、この日は休みらしくゲートが閉まっていた。
休日が続いた跡には、園を休みにしないと、従業員が休めないわけだ。この日はたまたまそんな日だった。
乗り物はすべて止まっており、土産物の販売所も照明が落ちていた。人気がまるでない。
施設や物の詳細は見えず、ぼんやりとしているが、何となく配置は分る。
ぼおっと眺めていると、店の陰から人の姿が現れた。
「あれあれ。今日は休みの筈だが」
小さい子どものよう。
一人が現れ、次にもう一人。それから二人三人が集まって来た。
一キロ離れているので、人影自体は蟻の大きさだ。だが、動き方、しぐさでそれが子どもだと分かる。
「休日の遊園地に子どもがいるのか」
うーん。
気になったので、カメラを取り出し、ズームで景色を拡大して見ることにした。
望遠機能をマックスに上げ、園の中を見ると、やはりそこにいたのは子どもたちだった。
だが、この日は快晴だったのに、レンズの中の子どもたちは霧に巻かれている。「あれ?」と思い、カメラを外すと、やはり霧も煙も出ていない。
もう一度ファインダを覗くと、子どもたちの姿は見えたり消えたりしていた。霧のせいなのか?
うーんと唸る。
すると、新たにもう一人の子どもが現れた。
着物を着て、ちゃんちゃんこを羽織っている。
「あれあれ。あの子はお稚児さまじゃないか」
俺にとっては身近な存在だから、見間違うことはない。
じゃあ、あそこにいる子どもたちは、きっとこの世の者ではないのだな。
人が集まるところには、幽霊も集まる。遊園地は子どもの喜ぶ場所だから、子どもの幽霊が来るわけだ。
あの子はそういう子どもたちの中に入って何をやっているのだろう。あるいはやろうとしているのだろう。
そんなことを考えながら、お稚児さまを見続ける。
すると、お稚児さまが俺の視線に気付いたように、俺の方に向き直った。
やや、あの位置から俺のことが分かるのか。
お稚児さまは、周囲の子どもたちのことを指差し、そして次に俺のことを指差す。
「この子たちはの世話をするのはあんただよってか」
ここで俺はお稚児さまの意図を解した。
お稚児さまは、この地で彷徨っている子どもたちを集めていた。浮かばれぬ子どもの霊をあの世に送るためだ。
だが、お稚児さまの務めは集めるところまでで、あの子たちを引き連れてあの世に導くのは、「渡し守」すなわち俺の務めなのだった。
「おいおい。俺はまだ死んでねえぞ。この役はまだ早くねえか」
その疑問にはすぐに答えが返って来た。
この世にだって本業ではなくバイトがある。あの世にも、同じような務めがあるのだ。死神が忙しい時には、俺みたいな者が搔き集められるらしい。
ここで覚醒。
「お稚児さま」の面白いところは、この子が「はっきり見える人」と、「まったく見えぬ人」とを分かつことだ。私など「見える」者には、これが「見えぬ」者の気持ちがまるで分からない。逆に言えば、見えぬ者は、私たちが何を言っているのか理解出来ないということだ。
お稚児さまを見て、その存在を信じるだけで、心が晴れ、人生の見え方ががらっと変わる。瞼を開き、現実を見ることが大切だ。この場合の「現実」とは、死後の存在はあり、「死ねば終わり」では到底ないということだ。そうなると、一生とは「自我が生成して消滅するまで」で、その折り返し点が肉体の死になる。生き方、死に方を根本から組み立て直す必要がある。