日刊早坂ノボル新聞

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◎病棟日誌 悲喜交々4/14 「わんこそばなら」

病棟日誌 悲喜交々4/14 「わんこそばなら」
 治療後に食堂に行くと、たまたまトダさんが一人でいた。食事をほとんど食べずに終え、家族の迎えを待っていたらしい。
 「食べられていますか?」と訊くと、「あんまり」との答えだ。やはり食べられていない。
 「わんこそばを食べたことがありますか?」
 「いえ。まだです。食べてみたかったけど」
 そこで「わんこそば」の効用を伝えることにした。

 「わんこそば」は、温かくも冷たくもない「温い蕎麦」だ。
 かつひと椀の傍の量は少量だから、ひと口で食べられる。
 食の細い者でも、その量をするっとなら食べられる。
 一度食べ物を口にすると、血糖値が上下向するから、その変化により腹が減る。空腹感があれば食べる気になるので、次はもう少し食べられるようになる。要は最初のひと口が重要だということ。
 素麺はもはや受け付けぬし、栄養飲料も飲めない。食べようと思って料理を始めると、その途中で嫌になる。
 「二年前にその状況になり、十二キロ痩せました」
 実際には、「稲荷の障り」によるものなのだが、そこは受け付けられぬ人が多いので、それを省いて話した。

 ま、すぐには無理だ。現状では、とにかく最初のひと口を食べる工夫をするのが一番だ。
 「あとは、なるべく皆で一緒に食べると、食が進みます」
 「確かに孫たちと食べる時には食べられます」
 どうやら、家では一人で暮らしており、娘が孫を連れて時々訪ねて来る暮らしをしているらしい。
 当方の直感では、「ダンナは割と早くに亡くなった」「家にはお祖母さんのような女性がいる」というものだったが、正解は半分だった。
 「娘がまるで私の母親のように煩く言うんです」
 ああ、それか。口やかましく言うのはお祖母さんではなく娘だったか。
 でも、家の中に「年寄り」の姿が見えるような気がするなあ。
 それがあんまりよくない方に働いている。
 「晴れた日には全部の窓を開け、自分もなるべく日光を浴びると改善します」
 ババアの影を叩き出せ。ま、口に出しては言えんけど。

 透析時間が「三時間半だったのに、これから四時間になります」と言う。まだ腎不全になりたてだったのだな。
 それなら、毎日が絶望感に溢れている。
 家に一人でいればなおさらで、孤独感や絶望感が食欲を奪う。
 こんな風になった自分を責め、さらに悲観して「もう死んでも良い」「早く死にたい」と思う。
 当方もそう思っていた。
 だが、望まなくとも、周囲はバタバタ死んで行く。六十人の患者がいれば、半年でその半分が入れ替わる。
 高齢になり多臓器不全でこの病棟に来れば、末期症状が腎不全と肺水腫だ。脳、心臓、肝臓で死ななければ、ほぼ全人類が同じ道を辿る。
 透析など、脚を失った人の松葉杖と同じなのだから、どうということはない。松葉杖や義足の人が自力歩行に向けて装置や訓練をするのだから、腎不全患者も自分で処置できるような装置や方法を採用する方に進むべきだと思う。足にシャントを作れば自分で打てるし、あるいはポータブル機械を認可すれば家族が出来る。医療費は三分の一以下になるし、第一、心が救済される。
 だが、現状では自力で対応できそうな人よりも、「死に間際の一瞬」にいる高齢患者の方がはるかに多い。
 ともあれ、透析装置を、義足や松葉杖の位置に近付けることが最大の課題だと思う。

 女性だけに、トダさんにこれ以上の助言は出来ないのだが、何とか今の危機を乗り越えて欲しいと思う。
 数か月後に、生死を分かつ危機が来る。
 心を前向きにするには、愚痴を零せる友だち(できれば異性)がいればよいのだが、患者にはそういうのがもっとも難しい。
 知り合いになるのは医療従事者か患者しかおらず、前者は対象外で、後者は自分のことで精一杯だ。