日刊早坂ノボル新聞

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◎霊界通信 R060531 「あの子はいつから」

霊界通信 R060531 「あの子はいつから」
 PC内のファイルを検索している時に、勝手にファイルが開くことがある。ミスタッチをしてクリックしたのかとも思うが、別のフォルダの画像だったりするから、理由がよく分からない。

 先ほど勝手に開いたのは、最初の画像だ。
 これは平成30年6月に宿谷の滝で撮影した。
 この頃はこの地で説明のつかぬ出来事が多発したので、ビデオカメラを持参して撮影したのだった。
 ちなみにここで言う「説明のつかぬ出来事」とは、
 「空中を煙玉が乱れ飛ぶ」
 「近くに人がいないのに、話し声が聞こえる」
 「画像に人影やその一部(目)が写り込む」
のような事態だ。
 ビデオ撮影をしたが、この日は別段何も起きなかった。
 これは「こうやってビデオ撮影しました」という状況証拠の画像だった。

 あとで、ビデオカメラを撮影した画像を見ると、カメラのファインダに見えているものが、デジカメに写っているものと異なる点があった。
 ファインダの方には、橋桁のところに女児の姿が見える(イ)。
 ただ、鮮明とは言えぬので、「そんな風に見える」程度の認識として保留にしていた。

 今、改めて見直し、「着物姿の女児」には、これまで幾度か出会っているから、いずれかに共通点があるかもしれぬ、と考えた。
 今のところ、画像の中に「着物姿の女児」が現れた最も古いケースは、平成31年の小鹿野町だ。
 温泉旅館の前で、入り口のガラス戸に映る自分自身を撮影したが、この時、ベンチの右側に、着物を着て赤いちゃんちゃんこを身に着けた女児(ロ)が立っていた。
 ちなみに、これはこれまで存在に気付いておらず、今年の一月になり初めて気付いたことだ。

 今年(令和6)の1月には、小鹿野町の同じ旅館でまったく同じ構図で撮影をしたが、この時には左右に女児が一人ずつ映った(ハニ)。
 これを見る限り、女児ロと二は同じ子どものように見える。
 双方とも赤いちゃんちゃんこを着ている。
 
 さて、問題は女児イと女児ハの関りだ。
 背格好から見ると、この二人の女児は同じくらいに見える。
 いずれも十歳から十二歳くらいだ。
 ただ、イが不鮮明であることと、ハが髪を巻いているように見えることから、別の少女である可能性が高いのかもしれない。
 これも保留事項になるが、撮影機会は今後もあるだろうから、ゆっくり解明していくことにした。

 ちなみに、参考画像は平成28年に宿谷の滝で撮影したもので、水流の中に女児の眼が写りこんでいた。
 たぶん、女児イのものだろうと思うが、これが今回の収穫だった。

 ちなみに、宿谷の滝には、平成二十八年くらいから令和初頭まで、山道の途中左側に「穴」があった。
 「穴」はこの世とあの世の交流点で、その周囲では霊的現象が多発する。
 冒頭で指摘した異変が頻発したのもその頃だ。
 動物にはこの「穴」の所在が分かる(見える)らしく、犬を連れて来た観光客が「犬たちが同じ位置に留まり動こうとしない」ので困り果てていた。
 私は犬が凝視する先に「穴」があるのを知っていたので、「やはりそうか」と納得した。
 その後、令和初頭になり、「穴」が消失したようで、この地で異変は起きなくなった。
 コロナ以後、滝を訪れていなかったが、今では風光明媚な観光地になっており、声は聞こえなくなっていると思う。

 

追記1もう余命は限られているので、この世の仲間は不要だが、死後の道筋を立てるためには、あの世の仲間が重要だと思う。

 今にして思えば、御堂観音の前で「ここに参拝して行け」と言ってくれたのが女児の声で、たぶん、右のお稚児さまだ。
 ちなみに、父の生まれ替わりかと思うほど、父の顔にそっくりだ。要は「縁者」だということ。

 「義務と権利」のように、お稚児さまが二人で一組だとすると、その大人バージョンは、「巫女さま」と「大きな女」だと思う。
いずれも私の傍におり、ずっと私を見ている。巫女さまは危機の時に幾度か助けて貰った。

 近しい者を知覚できるようになると、困難に当たった時に捨て鉢な気持ちにならずに済む。
 そもそも、「死ねば終わり」ではあり得ないので、死後を見据えた設計を心掛ける必要があるわけだ。
 いつも記す通り、この世のツケはあの世で払う。この世の貸しは、あの世で返して貰えるから、目先の困難に負けるな。

 あの世の仲間は、各人が難局に差し掛かった時には、大きな声で助言している。

 その叫びを、心と魂で受け止めれば、自ずから道は開かれる。