◎心眼で見る
前日の小鹿野の画像は、表面的には何の異変も無いものだ。
だが、何処か釈然としない。
私の周りには必ず「誰か(または何か)」がいる筈だ。
室内の照明の影響で、私の頭だけが消えているのだが、どことなく違和感がある。
そこでもう一度見直すことにした。
「本来の光と陰では出来ない部分」
「肉眼ではなく心眼で見る」
この二つがポイントだ。
すると私の左には着物を着た少女、背後の松の木の傍には男が立っているのが分かった。他にも隠れていると思うが、こっちを注視していない者は気にする必要はなし。
少女の方は、「いつも私と一緒に居る子」と同じ子なのかどうかはまだ分からない。
着物を着た少女が傍に立っていることに気付いたのはごく最近で、過去の画像を確認したら、あちこちに見えていた。
七八年も気付かずにいたわけだ。
この子が見える人は多いと思う。
半透明だが、周囲の景色から影が浮いている。
あの世の者の常で、顔はやっぱり怖いのだが、悪さを働く者ではない。
男の方が見える人は少ない。
姿かたちが見えずとも、特有の気配がある。
風呂場で声を掛けて来たのは、やはり父ではなくこの男のようだ。
以前ほどのざわざわ感は無くなったが、やはりここは霊泉だ。
帰路には下り腹がきれいに治っていた。翌日もひやひやしていたが、体調には異常なし。
この子が「かつて御堂観音で私に声を掛けてくれた少女」と同じ者であってほしいと切に願う。
「原点を見直そう」と思い、この地に足を運んだのだが、これは正解だった。
稲荷の障り以降、自分本来の姿を見失っていたような気がするが、仲間がいれば心強い。
この子があの子なら、巫女さま、トラとこの子で、とりあえず「同行四人」になれる。
ちなみに、病には「純粋に体の不調で起きるもの」「心によってもたらされるもの」「霊的な要因によるもの」があるが、これが三番目の要因によるものなら、うまくスイッチを入れることが出来ると劇的に改善される。
このスイッチを入れるには、内省と丁寧なあの世観察が必要だ。
「心を見ること」「心で見ること」ことが重要なのは言うまでもない。
これら総てが妄想である可能性も否定できぬししないが、「それで苦痛が軽減される」ならまったく問題ない。「自動車の構造を理解出来ず、作れずとも、運転することは出来るし、充分に役に立つ」ということだ。
追記1)令和元年時点の画像を追加した。この時には三四歳の幼児だったが、今回は六七歳くらい。
ちなみに、幾らかこのジャンルで敏感な人はここを訪れてみると良いです。
外からは「日帰り入浴」についての記載がないので、日中は客がほとんどおらず、ゆっくり入れます。家人も「声が聞こえる」と言っていたので、同じように聞こえる人がいると思います。「あの世」を体感できるが、しかし「まったく怖くない」のがポイント。ま、大多数にとっては普通のひなびた温泉旅館ですが、それで充分だと思います。
入浴のみ(たぶん四時まで)は七百円で、宿泊すると概ね一泊二万八千円くらい。
追記2)何とこの人影とも関係があるようだ。こっちは高校生くらいかと思ったが。年格好はいつも同じではないから、すぐには分からない。