日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎良心はどこから?

◎良心はどこから?
 病院から帰る途中、渋滞でノロノロ進んでいると、道の端に高齢のご婦人が立っていました。
 杖を着き、足腰が丈夫ではなさそう。
 車が行き来するのを見て、何事か思案しているようでした。
 「たぶん、道を渡りたいのだな」
 横断歩道はあるが、百辰らい先。そこまで歩き、横断歩道を渡ってから同じ場所に戻るには2倍歩かねばなりません。
 それが足が不自由な人には辛い。
 こういう時の気持ちはよく分かりますね。普通の人には何でもないことですが、当人には本当にしんどい。

 そこで、車をその場に停止させ、ご婦人に渡ってもらうことにしました。
 ご婦人がこっちを見るので目配せをすると、意図を理解した模様。ゆっくりと渡り始めます。
 反対側の車線はびゅうびゅう車が来ていましたが、当方が停まっているのを見て、そちらの車線の車も停止しました。
 ご婦人が無事に渡ったのを確認して、その場を後にしました。
 こういう時は、無意識に「何となくホッとする」ような気持ちになります。
 この安堵感が、たぶん、「良心」。
 何がどう、というわけではないのに、心が温かくなりますが、それも「良心を満たす」ところから来るのではないか。

 「でも、その『良心』というのは、どこから沸いて来るのだろう」
 当方は「基本的に人間の本性は『悪』」だと思います。
 生身のひとを存続させるのには、欲望を満たす必要があるのですが、「自分の欲を優先させる」ことは「他人を軽視する」ことに繋がりやすい。
 よって、ひとが生きること自体、『悪』に馴染み易い。
 しかし、そうは言っても、お年寄りや小さい子どもを見ると、自然に「大切にしよう」という気持ちが沸いて来る。
 これはいったい何なのか。
 ま、お年寄りのご婦人の場合、「母を思い出すから、その母になぞらえる」という要素があるのかもしれませんが、「喜び」のようなものを感じます。
 本能の回路の中に何かしら組み込まれているのかもしれませんが、では何のためにあるのか。

 これまで観察してきたところ、あの世に「神」はどこにもおらず、確実に存在するのは、悪霊・悪魔とその予備軍だけです。
 善悪で言えば、善は存在せず、「悪か、そうでないか」という違いしか無い模様。

 そうなると、「良心」は一体、どこから来るのでしょうか。