日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎『死の国』ノート 総ての記憶は残っている

◎『死の国』ノート 総ての記憶は残っている
 ひとは生まれ落ちてから死ぬまでの1分1秒ごとの記憶を総て持っている。
 「忘れる」というのは、単純にものを押入れや戸棚に仕舞い、隠してしまうのと同じで、扉を開けば取り出せる。
 要するに格納庫に入れて見えなくすることを「忘れる」と言う。

 私は臨死体験が複数回ある。
 これまで幾度も書いてきたので詳細は省略するが、2番目の時には、気がつくと「暗いトンネル」の中を歩いていた。
 その時、周囲にはピンポン玉やビー玉くらいの白く小さい玉が無数に浮かんでいた。
 ざっと何千はあろうかという数だ。
 そのうちのひとつが目の前に来たので、私は何気なくそれを触ってみた。
 すると、すぐに赤ん坊の頃のことを思い出した。

 まだ生まれて数ヶ月の時のことで、私は布団の上に寝かされていた。
 視線の先には裸電球が見える。その頃には「裸電球」という言葉を知らず、ただ「明るくて丸い光」だと思っていた。
 そして、「また最初からやり直しなのか」と思いゲンナリした。
 要するに、その玉は私の「ひと刹那の記憶」を入れた器だったのだ。
 そういうのが何千も浮かんでいたのだ。
 
 今にして、なるほどと納得する。
 ひとは人生経験の中で得た、刹那刹那の感情の記憶を小さくまとめ、仕舞い込んでいる。
 すぐ身近に置くものは取り出しやすい。要するによく憶えているということ。
 離れているものは手が届き難いから、それが「忘れた」という意味だ。
 おそらく、人生の中で培った「人格」がそれらの記憶(「記憶玉」と呼んでいる)を取りまとめ、統制しているのだろう。あるいは、そういう記憶玉のまとまり具合が人格であり自我を構成していると言っても良い。

 「ひとは死んで肉体を失うと、まず幽霊になる。次に自我を解放し、人格の紐帯を外すと、個々の記憶玉がバラバラに散る。それが解脱という意味だ」
 要するに、霊界は個々の断片的な感情の記憶で構成されている場所ということ。
 玉は大きさや重さに違いがあり、揺れ動いている間に、同等のもの同士が近くに集まる。
 これは湖や海で起きることと同じだ。下に沈むものもあれば、表面に浮かぶものもある。
 その意味では、霊界を海に例えるのは、状況をイメージしやすいと思う。

 死ぬと肉体も頭脳も失うから、心だけの存在になる。
 そうなると、そこで見聞きするものは、単純にイメージで、心象風景に他ならない。
 死後、「暗いトンネルの中を歩き」という部分はまさにイメージそのもので、過去に同様のことが語られていたから、それを憶えていたのだろう。
 仮にそれが、死ぬと「閻魔さまの前に引き出されて、それまでの善行悪行の総てを思い出させられる」でも、かたちはかなり違うが、実は同じことだ。

 本人が忘れ、「そんなことはやっていない」「そんなつもりはない」と弁明しても、総て詳細に記録されている。
 「トンネルの中」に置き換えれば、「閻魔さま」は自分自身で、自身が犯した諸々のことを自分が見逃すことはないということだ。