◎輪廻・再生の本質 (「転生」ではないので、念のため。)
ひとの中には、今生で得たものではない記憶を持つ者がいる。
多くは子どもだが、3歳くらいの幼児が「昔どこで何をしていた」と語ることがあるのだ。
習った筈も無い言葉を話し、経験してもいない具体的な出来事について詳細に語る。
これで「ひとは幾度も生まれ替わるのではないか」という視角が生まれる。
しかし、子どもたちの記憶を検証してみると、「前世」の記憶は曖昧で、断片的なものでしかない。
一人のものではなく、混雑しているふしもある。
このことで、「単なる偶然」「たまたま当たった」「無意識に推測した」と見なすのは早計に過ぎる。
まずは、「その通りのことが起きている」という仮定を基に、どうすればそのような現象が起き得るかを組み立ててみる。
まずは先入観を排除するところから。
この代表的なものは、「ひとりの人格が別の人格となって生まれ替わる」というものだ。
仏教を初め、多くの信仰ではこれが語られる。
そもそも、死ぬとその人格のまま、「天国や地獄に行く」みたいな発想が基盤にある。
これを証明するものは、これまでひとつも出ていない。
前世の記憶を持つ人が語る内容を、そのまま「あの世」の構成に移しかえるとどう見えるか。
検討の経過についてはこれまで幾度も掲示して来たので省略し、全体を眺めると、以下のようなプロセスになる。
(0)霊界からの離脱
人間が生まれる前段階で、霊界から様々な感情経験を掬い取り、物的基盤(有機体)に入れ込む。
霊界は数限りないバラバラな感情経験や性質で出来ているので、過去の人生における断片的な記憶が根底に置かれる。これが本能の基盤であり、気質の根源になる。
(1)誕生と成長
人間として生まれた時には、思考力が未発達で、自身の頭でものを考えることが出来ない。肉体の成長と共に、親から考え方や振る舞いを学び習熟する。
この時、霊界から運んで来た記憶は、意識下に隠れており、概ね思い出すことは出来ない。
たまに、境界線が曖昧な者がいて、かつての記憶が意識に上ることがある。
成長と共に、頭の中が整理され、かつての記憶は意識下に戻される。
新しい経験が次々に追加されるが、順番に整理整頓され、意識下に移される。これが「忘れる」ということ。思い出せなくなるが、無くなっては居らず、肉体が死ぬと表に出て来る。
(2)新しい自我の形成
人間として成長するに従って、意識を統括する自我が形成される。
この自我は五感や欲望によって強化される。
自我は心と霊魂のコントロールタワーになる。
(3)肉体の死
老いや病気により、肉体が滅ぶと、ひとは自我だけの存在となる。
魂と霊の違いは、肉体の中にあるか、肉体を持たないかの違いである。
肉体を失っても、そのまま自我を保つ霊が幽霊である。
幽霊は自我によって生前の姿を留めているが、自我を再確認するのは肉体を通じてであるから、次第に自我はおぼろげになって行く。
(4)自我の劣化
自我はひとりの人間の感情経験を統括するが、この紐帯が弱まることにより、記憶がバラバラになり拡散する。意識して自らそれを行うのが「自我の寛解」、自然にそうなるのが「消散」である。
自我を失うと、「誰が」という主格を示すものが無くなり、漠然とした「誰か」の感情に替わる。
あるいは、総てを「わたし」と置き換えられる。
「母が急に亡くなり、(わたしは)悲しい思いをした」
この場合の「わたし」は誰にでも当てはまるし、誰でもない。そんな状況を指している。
(5)消散と寛解
自我の紐帯が失われ、記憶はバラバラな要素となる。
霊界は要素や性質の集まりであり、海のような存在だが、この海に行き着くことなく幽界に散ってしまうと、ひととして再生できない。
既に幾度も書いたが、私にも前世の記憶が幾つかある。
大人になっても留めている例は少ないが、存在しており、多くの人は妄想や夢だと見なしている。
それらが想像や妄想ではないことを確かめるには、当事者だけしか知り得ない事実を憶えているかどうかということに尽きる。
この場合、それが事実かどうかを証明することにさしたる意味はない。
これから死に行く者に、「何故、どのような要因であなたは死ぬのか」を説明してもまったく意味は無いが、それと同じ。
しかし、死後の世界を受け入れる上で参考にはなる。
いずれ、自身の前世に関わる断片的な記憶を記録に残すつもりでいる。
繰り返すが、「ひとりの人格が、別の人格に生まれ替わるわけではない」のだから、前世に縛られることは無い。
「宿縁」や「因縁」も、「霊」や「あの世」を語る時に頻繁に語られるが、そんなものの影響力は小さい。ひとりの人間は、数万人分の記憶を意識下に抱えているので、色んな物が「あって当たり前」である。
「こころ」はかたちとして見えないが、その作用を研究する心理学は十分に成り立っている。
「こころは目で確認できないから、存在しない」と言う人はごく少数派だ。
ところが、「霊魂は目に見えないから存在しない」と言う人はかなり多い。
こういう考え方は、むしろ科学的な見地にはないと言える。
いまだ想像や妄想、憶測の段階に過ぎないが、少しずつ検証を進め、「霊理学」を目指すことにした。
「あの世」について嘘を語る「呪い師(祈祷師や霊能者)」は、「焚書坑儒」のように対応するのが相応しい。
まずは「出して見せろ」ということ。
「霊能力」など塵ほどもなくとも、また錯覚や見間違いが多いとは言っても、少なくともソコソコのものを出して見せられる。
自ら心霊写真を撮ることが出来ぬ程度の者が「霊」を語るなど、嘲笑の対象でしかない。
多くは「振り込め詐欺」と変わらず、「このままだと大変なことになりますよ」という脅しを多用する。多く金を巻き上げるための手段に過ぎない。
必要なのは「呪(まじな)い」ではなく、「研究と解明」である。