ひとは死ぬとどうなるか。
その答えのひとつは、幽界の住人(幽霊)を観察することで得られる。
これまでに分かっていることは次の通り。
1)肉体を失うと、「ほぼ総ての魂」が一旦、幽霊になる。
なお、ここで言う「魂」とは「肉体の中にある自我を持つ霊」のこと。
死後も自我は残存するという言い方も出来る(ある程度の期間)。
2)幽霊が自我を自ら解放すると、霊界の霊になる(自我の寛解)。
霊界には「主格」が無く、共通の要素や性質(「状況」や「感情」に関する断片的な記憶)で構成されている。主格が無いので、意思も無い。
3)「幽霊(幽界の霊)」は自我だけの存在だが、時間の経過と共に、自我を保つことが難しくなる。自我は次第に崩れ、散り散りになる(消散)。
消散は霊魂の再生ルートから外れているので、再構成(生まれ替わり)が出来ない。
このうち、「幽霊」については、次の特徴がある。
イ)生前の「自分がなりたい姿」でいる。「なりたい姿」とは「望ましい姿」もしくは「囚われた姿」である。このため、多く生前に馴染んだ服を着ている。
自殺をする者は、死ぬ間際の姿のままでいる。自我に囚われているため、長期にわたり苦しみを反芻する。
ロ)心の中がそのままかたちになって現われる。ひとの心は悪意に満ちているため、幽霊は多くおぞましい表情をしている。妬み・恨み・憎しみがそのまま表情に表れるからである。
ハ)自己の存在を確認するための肉体を持っていないので、次第に自我が希薄になる(消散)。
末端から消失して行き、顔の周囲に縮小し、ついには眼だけになる(「眼は心の窓」)。
最後にはそれも無くなる。
ニ)自我を失くすことは、存在が無くなることと同じなので、これを回避すべく、自身に似た性質を持つ幽霊が同化・合体し、ひとつになる。欲望や恨み、憎しみの念があれば自我を強固にするため、そういう欲望や悪意を仲立ちにする。
このような背景から、幽霊は「悪意」に馴染みやすい存在だと言える。
画像は昨年十月に伊豆で撮ったもの。
男が「助けてくれ」と叫んでいるが、生きている者の耳には届かない。
煙玉は私に由来するもので、それを見た幽界の住人が周囲に集まっているものと見られる。
画像に写る幽霊の視線が常に私に向けられていることでそれが分かる。
追記)十一月に小鹿野で撮影した画像を追加しました。窓ガラスに左眼だけが映っています。