◎この2日間を振り返って
月曜の早朝に空港に入ると、まだ時間帯が早くて、職員以外ほとんど人がいませんでした。
「どこか座るところを捜そう」
長椅子は窓の近くだけ。
フロアの端まで歩いて座り、全体を眺めると、何だか、あちこちから「見られている」気がします。
実際に人がいるなら、自意識過剰か、心に負荷が掛かっているわけですが、人は見当たりません。
1時間くらい経ち、出国口の近くに行くと、すぐ目の前にぞろっとひと(?)が並んで、当方を眺めている感覚になりました。
手を伸ばせば、すぐに届くくらいの距離です。
こういう時は「怖がらないこと」と「無闇に攻撃しないこと」が基本なので、その通りに頭を切り替えます。
相手は「溺れている」状態と同じ。とにかく助かりたい一心で、しがみついて来ることがあります。
そこで、「近くに寄られると、俺は苦しくなるから、5メートルより傍に来るなよな」と告げます。
その外だと、ほとんど影響がありません。
逆に、相手に掴まれると、かなりの苦痛を覚えます。一緒になって溺れてしまうわけです。
幽霊(残存自我)は元々、可視聴域と不可視聴域の間を行ったり来たりしていますので、この手のに見慣れていないと、それと分からない人の方が多いと思います。ま、大半の人は「恐ろしいもの」と見なし、「見ないように」していますね。
でも、顔は怖いのですが、恐ろしい存在ではありません。
死後も自我がいくらか残存し、その間、生に執着する者は「助けて」と叫びます。もはや心だけの存在で、ものを論理的に考えることが出来ません。
この状態は、まさに「溺れる人」そのものです。
毎日、きちんとお勤めをしている神社・寺社には、「流れ」のようなものが出来ており、その「流れ」に触れることで、スンナリ執着心を解きほぐせる場合があります。
残念ながら、これまで宗教が語ってきたような神や仏はあくまで理念で、実体としては存在していません。
それでも、ひとの関心をそこに向け、「流れ」を作るという意味では、重要な場所だろうと思います。
帰路の心身の調子の良さときたら、何年か味わったことのない爽快さでした。
「このまま病気が治ってしまうのでは」と思うほどです。
ま、そんなことはなく、生きている者には生きている者の決まりがあります。(何事も「思う通りにはならない」という決まりです。)
普段通う病棟には重篤な患者が多く、互いに挨拶をしません。皆が自分のことで精一杯で、他人が目に入らないのです。
それでも、根気良く声を掛けているうちに、挨拶が返ってくるようになります。
それと同じで、死んでさらに頑なになった心でも、自然体で接しているうちに、溶かすことが出来るようになるのかもしれません。
一滴の雨粒は非力でも、何万粒も落ちるうちに岩に穴を開けてしまいます。
これまで何十年もの間、「数十万の亡者の群れに追い駆けられる」夢に悩まされて来たのですが、数年前から、その同じ夢が変化して、「最後に不動明王が現れてほっとする」というものになっています。
「不動明王」は理念であり象徴であるわけですが、逃げずに亡者と向き合うことで、自分自身が楽になる。そういう意味なのかもしれません。
ところで、当方は宗教家になったり、霊能者になるつもりはありませんので、念のため。当方はもはや「あの世」サイドの者なので、生きている人にはまったく関心がありません。
生きている者が人生を切り開くのは努力と才能であり、まさに「己を救えるのは己のみ」です。(もちろん、思う通りにはなりません。それが「学び」に繋がります。)
生きている間のツケは死後に払うことになりますので、他力の幸運などは来ない方がよろしいです。
注)画像に少しコントラストを付けてみました。中央の二人組の左後方にも、こちらに歩み寄ろうとする人影が写っています。