日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

言葉尻

学生に「超高齢化社会」に関連した講義を行っていた時のことです。
ちなみに講義の内容は、厚労省高齢社会白書における見解のうち、どの部分が適切で、どの部分が必ずしも明言できないかを区分するというものでした。

年金制度に関連して、「皆のお父さんはいくつなの?」と聞いた時、返事がまったく返ってきません。
あいさつや返事をすることは、勉強以前の問題だと考え、常々指導していますので、じれったくなって言ったのが次の一言。
「お前たちにはお父さんはいないのか!」
もちろん、それは返答をしろ、何らかの態度を示せという意味です。
しかし、発言と同時に心の中で、「しまった」と思いました。

この中には、現実に父親がいない学生がいるかも。
その学生には、その言葉は差別発言に受け取られるかも。
まずったなあ。

しかし十秒後には、すっかり考えを変えました。
発言の前後を切り取れば、強引に差別発言だとこじつけることが可能かもしれないが、明らかに真意は「返答をしろ」ということです。
また、仮に学生の中に父親のいない者がいたとしても、既に皆20歳になっています。
大人になるということは、子どもの時の境遇如何にかかわらず、ひとり1人が対等で、それぞれ独りで生きてゆかねばならないことを意味します。
父親がいなかったことを、いつまでも引きずってどうするのか。
(父親のいないことがこれからのお前たちにとって大きなことなのか! いつまでも子どもでいないで、強く生きろよな。)
そう思い直したのです。

この数日の政界での話題は、両親のそろった「健全な家族」という大臣の発言に対する批評。
子どもの成長にとって健全であるのは、やはり両親のいる家族だというのはもちろん間違いではありません。
しかし、人間は「心で生きている」ので、いざ威信が傷付けられたと感じたら、言葉尻を捉え、次々と糾弾したくなってしまうようです。
様々な境遇の人がいますので、同時に、国民全員の目の高さで表現することは不可能です。
弁護するわけではありませんが、「片親世帯は健全ではないのか」→「これは差別だ」に繋がる思考は、厚労相の発言本来の意図とはかけ離れています。
言葉はただの言葉。振舞いかたの方が大事です。