日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

「姫神山人」を悼む

イメージ 1

先日、所用にて郷里を訪れました。
遠縁に不幸があったためですが、焼香から帰り実家で休んでいると、母が「伊五澤さんが亡くなった」と言いました。
本当に驚きました。

伊五澤富雄氏は旧玉山村(現盛岡市玉山区)にあって、地域の将来像から石川啄木研究に至るまで、様々なジャンルの著作を多数発表された方です。
私が拙い小品を出版した時、氏はことのほかお喜びになり、「われら姫神山人の心意気を世に示そう」という主旨の手紙を送ってくださいました。

姫神山人。良い響きです。
この言葉を眺めた瞬間、氏も私も「同胞であり仲間」であることを実感しました。
ことに、玉山村が消滅してしまった今となっては、ふるさとをどのように呼べば良いのかがわからなくなっています。
盛岡市玉山区」とはいったいどこのことなんだか!
私らはゼッタイに盛岡の人間ではありえません。

あまりに気に入ったため、「姫神山人」を自分の号として使おうかとも考えましたが、この言葉は氏の命名によるものですので、これまではさすがに憚ってきたのです。
しかし、氏亡き後は私がご遺志を継ぎ、この号を使わせて頂きます。
思い起こせば、氏は当初から私を後進としてではなく、友人として処遇してくれました。

写真は、石川一(啄木)や伊五澤富雄氏がこよなく愛した岩手山姫神山です。
いずれの山も玉山の渋民付近から眺める姿が最も美しいと言われます。
まさにそのとおりですね。
啄木が啄木たり得たのは、渋民の地に立ち世界を眺めたから、ということです。

伊五澤富雄著になる「啄木と渋民の人々」(近代文藝社)は現在も入手可能かと思いますので、地元及び岩手出身の方々は一度参照されてはいかがでしょうか。

謹んで氏のご冥福をお祈りいたします。

姫神山人 早坂ノボル