日刊早坂ノボル新聞

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九戸宮野城の包囲陣

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地図は「二戸市史」からの引用です。
(好意的引用のつもりですが、不適切であれば自作に改めますので告知してください。)

天正19年に、蒲生氏郷を初めとする6万を超える上方軍が、九戸宮野城を包囲します。
この時の布陣の模様については、様々な記述が行われています。もちろん、いずれもかなり時代が下ってからのものですので、どれが正しいのかは今もって謎です。
代表的なものを上から並べてみました。画像の掲載順は上から「二戸市史」の700ページ以降の(1)、(2)、(5)、(6)になります。

最もよく採用されているのは(1)で、主力は浅野長政堀尾吉晴蒲生氏郷とする布陣になります。
馬淵川、白鳥川方面からは、切り立った崖になり、事実上、城攻めは困難で、こちらは松前津軽、秋田などが控えています。

攻められないのであれば、陣を構えてもしょうがないので、馬淵川方面の布陣がないとするものもあり、(2)、(5)、(6)では記載がありません。

あて推量になりますが、この中では、(1)は無いと思います。
東・南の方向と北・西には、高低差がかなりあり、城に向け鉄砲を撃つと、東南からの銃弾は城を飛び越え味方に当たることになるはずです。逆に北西側からは空に向かって撃つことになり、大半が飛び越えてしまいます。
城攻めでは雨あられと銃弾を浴びせたはずですが、数日間とはいえ持ちこたえられたのは、この城構えがあったからでしょう。

攻め手の方は、攻撃の度に毎回500人から700人が死んだといいます。おそらく数千人は命を落としたはずで、そういう状況もあり、開城の後は中の人を皆殺しにしたくなったということだろうと思います。
この辺の攻め方のしくじりはあまり公にしたくないところですね。したがって、攻め手の損害状況に関する具体的な言い伝えはほぼ皆無です。城内にいたすべての人を殺すだけでは、とても気が済まなかったかもしれません。

宮野城内の5千人が「なで斬り」になったとされていますが、死体は2千人分だったとする説もあります。
北奥の人は、寒さに耐えて生きてきたので、見た目よりはるかにしたたかであり、とっくの昔に相当数を逃がしていたのかもしれません。
戦の前の九戸郷は領民を合わせて2千4百人程度の小領でしたが、葛西・大崎の遺民を吸収し、直前では7千人から8千人が集まっていたと推定されます。
城で亡くなったのは2千人で、あとは各地に雲散したといったところが、裏の真実かもしれません。

津軽大浦は元々は九戸の盟友で、津軽には九戸直系の子孫が生き残っているという話も伝わっています。