日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

自分自身の姿を見た  (その1)

家人は小学校勤務です(英会話)。

先日、1年生の授業中にふと窓のほうを見たら、外に誰か立っていたそうです。
「何だろう」と顔を向けると、そこに立っていた女性は自分自身でした。
「あれは、気の迷いではなく、ゼッタイに私だ」

家人は外国籍ですが、ここは日本なので、日本流に解説してやります。
「それってドッペルゲンガーてやつか、自分の生霊だよ」

ドッペルゲンガー」は分身のような存在で、もし自分のこれを見ると、程なく死ぬという伝説があります。
要するに、死期を知らせる役割を果たすものです。
「生霊」は執着心を持つ相手のところに、頭で考えることとは関わりなく現れます。通常はあまり良くない結果をもたらすのですが、心の奥の執着心が現れたものなので、コントロールが利かないものなのでしょう。
おそらく、今の家人の関心は100%勤務先に向いており、気持ちが学校の中にある。

「そのどっちかだろ」と言うと、家人の答えは、「たぶん、後のほう(すなわち生霊)」でした。
つい数か月前にもこんなことがありました。
2年前まで勤務していた小学校は、創立130年の古い小学校で、130年間同じ場所にあります。
もちろん、建物は建て替えられていますが、土地は古い。
敷地の隅には、小さい扉の付いた防空壕がいまなお残っています。
この小学校では様々な変異が起きていて、旧日本陸軍の服装をした「用務員さん」が歩いていたり、放課後、誰もいない構内で走り回る音がしたり、と怪談だらけです。

今の学校はその小学校の近くの学校で、バス停も隣です。
待ち時間によっては、前の学校のバス停まで歩くことがありますが、たまたま小学校の前で用務員さんに会ったのだそう。
すると、その用務員さんが「こないだ、なんでこっちの学校に来たの?」と家人に訊いたのです。
その用務員さんによると、その日の夕方6時半頃、学校を見回っていたら、講師室の灯りが点いていた。
「消し忘れたんだな」と思い、スイッチを切りに行ったら、その部屋の中に家人が座っていたというのです。
「そんなこと。あるわけないじゃない。その時間ならいつも電車の中にいるし、大体、わざわざそっちの学校に行く理由が無い」
でも、その用務員さんは「絶対に〇〇先生だった」と言い張ったとのことです。

「その学校の生徒のことを、お前は気に入っていた。わざわざそこのバス停まで歩くのも、道々出会った小学生たちと言葉を交わすためなんだろ。いまだ心がそこにあるから、その気持ちが姿になって現れるんだよ」
実際、1年が過ぎた今でも、家人はその小学校の○君や△ちゃんの話を時々します。

「やはり、私自身の生霊?」
「きっとそうだよ」
今は家人の魂(?)が小学校を彷徨っているので、ダンナの近くには出ません。
以前は、唐突に家人の声が聞こえたり、家人そっくりの女の人影を見たりしていましたが、それも今はパッタリ無くなってます。
                             (続く)