◎扉を叩く音 (続)
毎年、「秋から冬に、深夜、玄関の扉をノックする音が聞こえる」話の続きです。
10月26日午後5時の記録。
台所の端で包丁を握っていると、柱の陰に人の気配がある。
「帰ったのか?」
息子かと思い、視線を向けると、そこに立っていたのは、着物を着た女だった。
全身が見えた訳ではなく、肩口から袖のところまでが柱から見えている。
着物は紺色で、絣に似ているが、模様が少し違う。
「おい。近過ぎるぞ」
そう声を掛けて、台所の奥に移動した。
わずか70、80センチほどの距離だったので、手を延ばせば届きそう。
すぐに見えなくなったが、さすがに気色が悪い。
思わず九字を切った。
幽霊は執念だけの存在だから、生きている者にとってはどうしても気味悪く感じてしまう。
思考力が無いから、特別、こちらに悪さをしてやろうという気持ちも無いはずだが・・・。
やはり、あちらから私のことが見えるので、つい近寄ってくるのだと思う。
さもなくば、私の方があちら側に近付いているということ。
まだ1、2本ほど著作を遺したいので、あと1年か2年の時間をくれないものだろうか。
もはや、今秋からは「扉を叩く音」という表題は、内容に合わなくなっている。
既に手の届く間合いにまで近付いた。
ほぼ十年の間は、やつらは扉の外にいたのに。
あの世とこの世を繋ぐ者は数少ない。
私があちら側に行ってしまったら、妄言を吐くエセ霊能者や妄想教祖だけになってしまう。
私には特別な能力や感覚は無いのだが、耳を傾けることは出来る。
もう少しの間、生かして置いてくれないものか。
そろそろ、死が間近な人をあの世に安らかに送ることが出来るのではないかと思う。
ボランティアで施設を回り、死に行く人々の話を聞こうかと考え始めた。