日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎6月23日の追検証

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◎6月23日の追検証
 さて、現在に至る一連の流れは、6月23日を基点とします。
 これまで5年以上、この地では何も起きず、私にとっては「穏やかな場所」だと見なして来たのですが、この日を境に一変しました。

 まずは、私が見てきたものが本物かどうかということです。
 そこで23日の象徴的な画像と、まったく同じ位置を改めて撮影し、細部を検証してみました。
 前回は、うっかり画像を左右反転するのを忘れていましたので正確ではありません。
 今回は位置を照合して確認しました。

 結論は「たまたまでは起こりえない」ということです。
 この手のことは、ごく日常的に起きていますので、時々、判断ミスをしたりすることもありますが、この画像には微塵お疑いもありません。

 さて、骨董の世界での格言に次のようなものがあります。
 「偽物を本物と見誤ることは、それほど恥ではない。贋作者は新しい技法を使い、次々に繰り出してくるからだ。しかし、本物を偽物と見誤ることは絶対にしてはならない」
 すなわち、本物が見えないのでは、鑑定眼そのものがダメだということです。
 これはこのジャンルでも同じです。
 「想像」や「妄想」から抜け出るためにも、本物(の霊)を見落としてはなりません。

 映画やドラマで語られる「あの世」は、極めて断片的で、誤りが多いです。
 生きている人間は、肉体の殻で守られ、外と隔てられていますので、滅多なことは起きません。
 その意味で「あの世」を「恐ろしいもの」として捉える見方は、基本的に誤りです。

 その一方で、多くの人が「終わり」と考える「肉体の死」は、実は終わりではなく、その後も自我はある程度、幽界の中に残存します。
 本当に恐ろしいのは、死んだ後は「自我がむき出しになってしまう」ということです。
 生きている者は、心中を隠すことが出来るのですが、死者にはそれが出来ません。
 感じたこと、考えたことが、そのまま現実として各々に降りかかります。

 肉体の死は、単なる通過点に過ぎないので、生きているうちに、どのように生き、どのように死ぬかを十分に考え、正しい考え方を身に着ける必要があります。
 人生で培ったものの多くは、死後には役に立ちません。外形的なものに意味が無いのは分かりやすいと思いますが、生前は個人の人格(自我)と一体になっている知識や教養も、死後には一切、役に立ちません。

 6月23日の画像はどんどん変化して、消えたり現れたりしています。
 大半は難しいのですが、幾つかは、引っ張り上げられると思います。このため、この後も、時々、ご供養に行くことにしました。

 結局、「気のせい」でも何でもなく、私が発している「光玉」を察知して、幽霊たちが姿を現しただけでした。
 「見て欲しい」と願う対象は私一人ですが、その理由は「救い上げてくれるかもしれない」からということだろうと思います。

 最近の「水辺に立つコートの女性」は、二日目には、私に気づき、上を見上げていました。
 まだ上がって来ていませんが、きちんと「決まり」を守れるのであれば、引き上げられると思います。