◎夢の話 第755夜 Eメール (462)
12月5日の午前2時に観た夢です。
我に返ると、PCの前に座っていた。
画面に目を向けると、Eメールが届いている。
「こういう写真が撮れました。見てくれませんか」
ああ、またか。こういう人が時々いる。「こういう心霊写真が撮れましたが」という類の相談だ。
もちろん、添付ファイルを開くことはない。
返信するかどうか少し考えたが、今回はすることにした。
「残念ですが、そういうことはしていません。私は霊能者でも研究家でもなく、祈祷師でもありません。また好奇心から調べているのでもなく、もちろん、ネットで受けようなどとは考えていません。それに、写真は幾らでも合成出来ますので、出来上がった写真を見て議論しても仕方がありません」
フェイクでそれっぽいのは幾らでも作れる。
人には「特別な霊能力」などは存在せず、あくまで「目で見て耳で聞く」。たまたま個人差があり、可視聴域が少し広い者がいるが、そういう人は姿を見て声を聴くことがあるかもしれない。しかし、その相手がどういう人で、何故そうなったかなどというようなストーリーは、総て想像や妄想に過ぎない。
基本が想像や妄想なのだから、それが現実に符合しているかいるかどうかは関係がない。どうであれ、想像は想像ということだ。
こういうのは、なかなか伝わらず、多くは宗教や霊能者の言う考え方に添って思考する。
だが、「この心霊写真は本物かどうか」と考えた時点で、もはや考え方が間違っている。
「本物・偽物」ではなく、「見える」か「見えない」という判断しかないのだ。
「撮影時から周囲の状況を確認できていれば、『説明がつく』か『説明がつかない』という見方で眺めることが出来ます。でも、出来上がった写真を見て、これがどういうものかを説明することは出来ないのです。何故なら単純に『見える』か『見えない』かという違いしか語れないからです」
それに、他人の好奇心を満足させている時間は、俺にはもう無い。
どういう風に死を向かえ、その後、どう対処すべきかを考えるだけで精一杯だ。
今のまま死ねば、俺は間違いなく悪霊になり、この世に現われる。
その段取りが何となく分るのだ。
それで、生きている者にとんでもない災禍を振り撒く。
そうならないように、「死んだ先のこと」を見据えようとしている。
「お前らなんかは、心霊ビデオでも観て喜んでいろ」
心の中でそう思うが、もちろん、そんなことは書いたり、態度に示すことはない。
断りを入れた十分後、すぐに返信が来た。
「でも、ほら、見れば分りますよ。憶えがある筈です」
「憶え」だと?
それって、俺に何かしら関係がある写真ということだな。
よくいるような心霊写真マニアではないのかもしれん。
そこで、画像を外部メディアに写し、ウイルスチェックをした上で、開いて見ることにした。
画像は1枚で、モノクロのものだった。
「随分古い写真だな。明治かそれより新しくとも大正くらいだ」
高原の避暑地らしき場所で、男女が四人並んでいる。
女性は丸髷の着物姿で、男性は礼服を身に着けていた。
何かの記念に、皆で撮影したらしい。
「なるほど」
言われた通り、何となく記憶がある。
俺はこの翌年、インフルエンザが流行った時に病気で死んだのだった。
左から二番目の二十歳くらいの女性が俺だった。
ここで覚醒。
夢の途中から、「これは夢だ」という自覚があった。
半ばでは「これはメッセージなのか」と警戒したのだが、やはりただの夢だ。
ひと一人の魂が、そっくり別の人格に生れ変わることは無い。
断片的な記憶を残していることはあるが、今の魂は「かつての断片的な記憶」の寄せ集めだから、「前世の因果が祟る」などという事態は存在しない。
「起きそうだ」という心が「きっとそうに違いない」という確信を招くので、心の中から払拭すれば、まったく気にならなくなる。
もちろん、幽霊そのものは存在するのだから、軽視するのではなく、敬意を払いつつ、「棲み分ける」ようにすれば問題など生じない。
生れ変わるには、「自我を解体する」ことが不可避で、その際には一人の人間の得た感情の記憶は分断されてしまう。
写真の中にいた「若くして死んだ女性」のエッセンスの一部は受け継ぐのかもしれないが、その女性と「(夢の中の)俺」が同一人(魂)ではあり得ないのだ。
この日は、病院からの帰りに、神社に参拝した。
このところの傾向を踏襲し、さしたる異変は現われない。
しかし、山の木々の背丈が伸び、昼過ぎには日陰になってしまうから、日光の光量が不足しているだけかもしれん。
午前中では、元々出難いから、季節が替わるまで、異変は少なくなると思う。
外出した際に、「拾って」来なければ、特に問題は生じない筈だ。
ま、あくまで願望に過ぎないのだが、何もないと「まだしばらくは生きられる」気がする。