日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎夢の話 第679夜 訪問者

◎夢の話 第679夜 訪問者
 6月2日の午前3時に観た夢です。

 久々にメールで連絡が入って来た。
「ちょっと見て頂きたいのですが」
 自分の撮った写真を見てくれという話だ。
「ふうん。最近では珍しいな」
 「写真を見てくれ」とは、これまでの経緯から言って、「あの世」系の件になる。
 あちら側の世界のことを探求するようになった当初は、沢山の人が近づいて来たものだが、最近は皆無になっている。
 「そんなものは存在しない」と言い張るヤツには、俺が自分で撮った写真を見せれば話は終わり。説明出来る者はいない。普段は絶対に他人には見せられないものを見せる正当な理由になるから、これは歓迎だ。仲間が増える。
 逆に「私は霊能者だが」とエラソーに言って来るヤツもいた。しかし、俺はあの世を調べているが、霊能力を否定しているし、「霊感なんぞ、大半が妄想だ」と公言している。
 そこで「まずは自分自身で撮影した画像を持って来て。話はそれから」と伝えると、2度と現われない。こういうのは、あくまで観客席で見ている評論家なのに、自分がマイケル・ジョーダンであるかのように装っているだけだ。ボールを一度も触ったことが無くとも、何がしかの解説は出来るから、別の観客ならソコソコ騙すことが出来る。
 大仰に「神」を語ったり、「霊と交信出来る」と標榜する手合いは、概ね評論家であり、妄想家だ。数分でお引取り願うことになる。
 それで、今は寄ってくる者がいなくなった。
 もっとも、大半の人が望むのは、「死後に訪れる真実」ではなく、人生を生きて行くための心の支えであり、杖だ。信仰や宗教もその方法のひとつだし、占いや運命鑑定も同じ機能を果たしている。知りたいのは、あの世の真実ではなく、現世をいかに乗り切っていくかということ。
 だから、俺が「客観的に観察すると、『神』はいないようだ」と言うと、皆が一様にがっかりする。しかし、俺の話には続きがあり、あの世の一番奥、すなわち霊界(霊海)には人格が無く、個が存在しないので、全体が『神』と同義だという見解になる。
 霊界にあるのは性質で、「子を突然失った時の母親の気持ち」とか、「誰かを愛する時の幸福な気持ち」みたいな数限りない心情がある。

 ま、それはさておき、俺の許にやって来たのは、二十歳台と思しき若者だった。
 男は鞄からタブレットPCを取り出すと、俺の前に置いた。
 「僕が見ているのはこれです。僕の眼にはこういう風に世界が映っているのです」
 画面を覗き込むと、そこにあったのは何とも言えぬぐねぐねとした画像だった。
 空とも湖とも言えぬ水色の色彩がうねり、所々に何か物体をデフォルメしたような茶色のかたちが配置されている。
 絵の具をぶちまけて、混ぜ合わせたようにも見えるし、ムンクの絵のように、具体的な風景を抽象化したもののようにも見える。
「おいおい。こいつは・・・」
 一見して意味があるようには見えないが、しかし、数秒で俺にも何が写っているのかが見えて来た。
 「これはどこか部屋の中で、テーブルや椅子みたいな家具がある。そこに誰か知らぬが人が座っているようだ。女でまだ若い」
 それらしいかたちはまったく無いのだが、何となくそんな風に見えるのだ。
 ここで、若者が俺の目を見据えて言った。
「僕にはこういう風に見えているのです」
 この画像は、若者がいつも見ているものと同じということだ。

「これは心象風景だ。この部屋で君は暮したことがあり、その時、君はこの女性と一緒だった。その記憶を思い出そうとするが、君はこんな風にしか思い出せない」
 若者が頷く。
 「何故なら、君はもう死んでいるからだね」
 ここで俺は納得した。
 この若者は、ついこの間、俺の車に乗り込んで来たやつだ。
 彼はかたちの無い世界にいたが、俺の姿が見えたから、ずっとついて来たというわけだ。
「これは難題だ。物的世界の中にいるから、理屈というものが成り立つ。しかし、心は理不尽で理屈では動かない。そうなると、どうやってこの子を霊界に送り出せるというのだろう」
俺は思わず腕を組んで、考え込んだ。
 ここで覚醒。