日刊早坂ノボル新聞

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◎「思いやり」の欠如  「女性蔑視」で森さん辞任の件(3)

◎「思いやり」の欠如  「女性蔑視」で森さん辞任の件(3)

 森さんが辞任した件の続きになる。

 世の中には「社会正義にかこつけて人を貶める」者はいくらでもいて、「自分は正しい」と思っている。だがそれこそが欺瞞だ。

 

 森さんの挨拶文を読んだか、あるいは読まずに非難しているかは、すぐに分かる。

 多くの「著名人」のコメントは、典型的に「読んでいない人」で、「女性蔑視」と言う言葉だけに反応している。

 こういう人は、そもそも相手のことを理解しようとする気持ちが無いから、「辞任だけでは足りない」とまで口走ってしまう。

 足りないのはこういう人の「思慮」だと思う。

 

 近くの国に「反面教師」がいるから、そちらを例にとってみる。

 隣国人は自国民を「親日」か「反日」かで区切り、簡単に断罪する。

 なお「親日」とは、「日本と友好的」という意味ではなく、併合されていた時代を「認める」という意味のようだ。

 その流れで「親日」を「悪」と決め付ける。

 ひと度、「親日」と見なされれば、既に死んでいる人の墓を暴き、財産を没収するのも合法だという。また併合時代について肯定的な評価を下すこと自体が犯罪に当たるのだと言う。 

 他の者が見れば「異常な論理」と思うのだが、本人たちは「反日」を「正義」と位置づけ、その「正義」を信奉しているから、自身の異常さに気付かない。

 

 森さんのケースでは、大半の人が「女性は」という言葉の混じる数行の表現だけを取り上げ、「女性蔑視」と決め付けている。

 これは隣国人がやっていることと大差ない。

 

 最も不味い事態だと思うのは、批判する側に「他者の立場を汲む(想像する)姿勢がないこと」と「真意を理解しようとする気持ちが無いこと」のふたつだ。

 挨拶文に目を通さずに、メディアの「女性蔑視発言を行った」という文章だけを見て批判を口にしているのではないのか?

 

 高齢の障害者が国のためによかれと思って働いている。だが、やはりキツいから、会議が無駄に長すぎることに、たまには愚痴のひとつも零したくもなる。

 ここは周囲の者が「大変ですね。最初から最後まで座っていただかなくとも大丈夫ですよ」と労う局面だ。実際、森さんの挨拶は「頑張ってくれている女性たちへの感謝や労い」を表そうとしたものだ。

 それなのに言葉尻を捕まえて、辞任に追いやるとは、誠意にかけるし、思いやりもない。それまで仲間だった筈の人たちまでが、まさに「くるりと背を向け」、批判を口にしている。

 自身に火の粉が及ぶことを恐れたのか、その場に同席していた人までが「女性蔑視はいけない」と発言していることには、本当にあきれる。

 

 常々、「日本人がよく自慢にする『おもてなし』は、外国人向けのポーズに過ぎない」と思っていたが、森さんへのバッシングはそれを裏付ける。

 ここには相手の境遇や状況への思いやりなど微塵もない。

 

 森氏を批判する人の多くが「高齢者は辞めろ」とも口にするが、それこそ「差別」ではないのか?

 これは「女性は話が長い」よりももっと酷い。

 

 五輪の開催権などすぐに返上しろ。こんな姿勢では、保守体制が空中分解する。

 眼が行き届かなくなり、開催期間中に感染爆発すれば、どう収拾を付けるのか。

 負け戦はあっさりと負けを認め、八年後か十二年後に再戦する方がよい。