日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎扉を叩く音(続)

◎扉を叩く音(続)

 「毎年、秋から冬にかけて、深夜、玄関の扉を叩く音が聞こえる」話の続きです。

 

 夢と現実の双方で、「天井に届くほど背の高い黒い女の影」に出会ってから、二週間超に渡り、毎夜悪夢に苦しめられていた。しかし、ある日を境に一切観なくなった。

 それは、イリス(女の幽霊)の望み通り、アモンとの仲立ちを務めた、「あの日」のことだ(以下、「あの日」と称す)。

 芝居がかっており、我ながら大仰な話だと思えるのだが、命懸けのことなので、そこは真剣だ。

 ここは遊びでやっているわけでも、ネットでウケるためにやっているものでもない。

 「きちんと対処しろ」という直感が働くから、そうしているわけだが、概ね私の直感はいつも正しい。

 翌日から、「大きな女」は夢に出なくなった。

 当初はあの「大きな女」もイリスの仲間だと思っていたのだが、どうやら違ったらしい。

 

 さて、その後に起きていることは、「チャイムの音」だ。

 毎夜、午前二時から三時の間に、「ピンポーン」か「ジリジリジリ」と玄関のチャイムの音が鳴り響く。

 普通の音の何倍かくらいの大きさなので、別の夢を観ていても、そこでパッと目覚める。それほど大きな音が聞こえる。

 ただ、明らかに私の脳内で音が響いている。

 これまで記録を残さなかったのはそのためで、こういうのは自意識がもたらす覚醒サインのことが多いからだ。要するに完全なる「想像や妄想」の域ということだ。

 中高生時分なら、夕食後に仮眠を取ると、一時間くらい後にチャイムの音で起こされたりしたものだ。

 これは「起きて勉強しなくちゃ」という潜在意識の為せる業だ。 

 よって、たぶん、その類だろうと見なしていたわけだ。

 

 これに比べ、ノックの音は現実の音として響く。

 「バチンバチン」、もしくは「ベタンベタン」と実際に叩くから、私以外の者にも聞こえる。具体的に存在する現実の音だということで、前述の脳内の音とはまるで違う。

 

 さて、この間に起きたことを並べてみると、以下の通りになる。

1)予め一月と二月に生死に関わる危機が訪れること予期していた。これはいつものこと。

 こういうのは直感が教えてくれるし、必ずその通りのことが起きる。実際、この時期には体調が著しく悪化する。

2)二月のピークがあの二週間で、「大きな女」が現れていた期間になる。

3)イリスとの一件以後、悪夢や現実の異変がぱったりと減った。

 

「扉を叩く音」の方に関しては次のような展開だった。

イ)一年以上前から、ノック音がほとんどしなくなった。その代わりに家の中を人影が動く。要するに「出入り自由」になっていたということ。

ロ)「あの日」を境に、再び、チャイムの音が始まった。

 

 そして、より重要なことは、「あの日」を境に体の状態が激変したことだ。

 病状が著しく改善された状況は、本人でも「到底信じられぬ次元」だ。

 

 俯瞰的に眺めると、ごく簡単なことが考察できる。

 それは、「心身の状態と『大きな女』の出現が関わっていた」ということだ。

 これを「潜在意識の報せ」だと見なすか、「この世ならぬ者の到来」と見なすかは、読む人の自由だ。

 私はあの「大きな女」は、「お迎え(死神)」にかなり近い者だと思う。

 かつて、「お迎え(死神)」に会ったことがあるのは、繰り返し記述して来たとおりだ。心停止、および心停止に近い状態に至ったのも一度だけではない。

 

 仮にこれを潜在意識がもたらす表象(具現化したかたち)と見なしても結構だ。むしろその方が分かりよい。

 「大きな女」が自身の死の予見であるとすると、「チャイム」の解釈は容易だ。

 夢に出て来る「家」は身体の象徴だから、チャイム音→ノック音→家の中の人影、の順に「死が近寄っている」と見なすことが出来る。

 もはや病気が深く進行しており、死の危機が迫っていたが、これが回避されたので、再び「チャイム」の音に戻った。

 これが現実の病状の変化と重なる。

 

 これまでに分かっていることは次のことがらだ。

 「死期の到来には、必ず前兆(前触れ)がある」ということが前提としてあり、

 とりわけ、それが「ひとの姿をしている」場合がある。

 ただ、その現れ方は、その通知を受け取る人によって違って見える。

 

 遠縁の金太郎さんには、青黒い顔をした見ず知らずの男が現れた。金太郎さんが亡くなったのは一年後だ。

 母の時には、父の前に「若い男」が現れ、「奥さんを連れて行きます」と告げた。母が亡くなったのは、それからほぼ一年後だ。

 実家の近所のSさんには、「薄気味の悪い顔をした男」が現れたので、Sさんは物を投げつけて遠ざけようとした。Sさんが亡くなったのは三か月後だ。

 私の前には二人組が現れた。二人組は私を連れ去ろうとしたが、私は「壁」に守られ連れて行かれなかった。

 この手の経験を色んな人から聴いているが、「お迎え(死神)」に会った後、一年以上、生きているのは、今のところ私だけのようだ。

 なお、いずれも夢や想像の話ではなく、覚醒時に「実際に対面した」という話なので、念のため。

 

 私一人がまだ生きているわけだが、他の人との違いはただ一点だ。

 それは「常にあの世の者について注意を払い、警戒している」という点だ。

 母は悪評が立つのを嫌い、「毎夜枕元に訪れる者」の話を一切しなかった。

 私は他人にどう思われようが平気なので、書き記すことには抵抗がない。

 もちろん、口頭では話題にしない。他の人は好奇心程度の関心なので、双方にとって時間の無駄になる。

 

 今回、ようやく「物差し」が立った。

 「チャイムの音が聞こえる」「ノックの音が聞こえる」は「家の外にいる」から、ごく差し迫った危機は無いということになる。ただ気を許しては行けないし、扉を開けて迎え入れてもいけない。

 注意すべきは、「お迎え(死神)」に家の中に入られた時だ。

 これは、かなり「間近に死期が迫っている」ことを意味する。これには病気だけでなく、事故や事件も含まれるから、その時点での体調などとはあまり関係がない。

 

 かなり前から、私は家の中でも「黒い人影」を眼にしていた。

 これが「普通の幽霊」だったり、「イリスの仲間」だったりするので、判別が容易ではないのだが、あの「天井まで頭が届きそうな背丈」の異常さは格別だ。

 この手のを傍に「近付けぬ」ようにすることと、なるべく「外に追い出す」ことで、死期を遠ざけられる。

 もちろん、「お迎え」の現れ方は「人によって違う」から、常日頃から「集中して気を配る」必要がある。

 今現在、現実感のある悪夢は観なくなったし、「大きな女が近くに居る」自覚も無くなった。

 

 だが、台所のカウンターの陰には、やはり人影が立っている。

 私の場合は、「助けて欲しい」と寄ってくる者がいるのだが、こういうのは死期とは関係がない。

 ただ、「亡者が私の後をついて来る」夢自体は、子どもの頃から何百回も観ているから、これが現実に変わったところで、さしたる違いはない。

 

 ちなみに、「ちょっとした異変」の中に「前兆」があったりするから、「何かいつもと違う感じ」に気を配っていると役に立つ。

 気になったら、私のような「変人」に訊いてみるとよいと思う。なるべく「私以外の変人」に、だが(笑)。

 

 備考)時間が惜しいので推敲も校正もしません。不首尾はあると思います。