日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎ご質問(3/22)に対する私なりの回答

◎ご質問(3/22)に対する私なりの回答

 数行の記述を基にした回答ですので、的を射ているかは分かりません。

 

1)何か「到底普通とは考えられぬ」出来事が起きていますか。

 老病死はある意味「必然」なので、慌てず騒がず冷静さを保つことが必要です。

 多くは誰の人生の中で起こり得る不幸で、大きな差し障りが無いことの方が多いです。

 「こんなことは人生の中でごく普通に起きること」と見なすようにすると、次第に平気になります。

 また「これくらいはどうということはない」と思えば、後述する「悪縁」の方も居づらくなるようです。

 まずはご自身の心痛や不安感がどこから来るのかを考えてみることだろうと思います。

 凶事が続く際の心構えは、まず「こういうことは誰の身の上にも起きることで、自分(や家族)にだけ起きている特別なものではない」と考えることです。

 

2)偶然では片づけられぬ事態が起きている時の対処

 次に、もし、はっきりした異常が起きている場合には、差し当たりどう対処すべきかを述べます。

 私は十日くらいの間に二度車に追突されたことがありますが、そのこと自体は「起こりうる」ことだと考えます。ただ、その時は車の後部に手形が付いていたので、「普通ではない」と見なしました。

 人間関係のトラブルも重なったので、思い余って、神社でお祓いを受け、霊感教会を訪問しました。

 後者で言われたのは、「霊の影響を受けやすいが、それが宿命でもある」という内容でした。

 それなら、「慣れて克服する」しか手立てはありません。

 

 さて、ここまで「異常な出来事」「偶然では片付けられぬ出来事」が起きたら、と記したのですが、具体的にはどのような内容のことを言うのかについて記します。

 私が実際に経験したことで言えば、次の物理的現象があります(一例)。

 なお、幽霊の目視に関わることを除きます。これは主観に左右されるためで、物差しとするには不十分だからです。

 

 <出来事の一例>

◇短期間に交通事故が重ねて起きる。→ 普通です。

◇ドアが勝手に開閉する。 → 家には必ず隙間があるので起きうる。 

◆鍵の掛かっていないドアが開かなくなる。引っ掛かっているのではなく、ドア全面が張り付いたように動かない。石の壁のよう。

◆誰もいないのに、玄関の扉を叩く音がする。 

ちなみに、今は午前二時過ぎですが、これはつい先ほども起きています。今回はドアノブをガチャッと引く音。階下で息子も聞いたと思いますが、私、家族とも今は何とも思いません。泥棒かどうかを確かめるだけ。

◆回線の繋がっていない電話に着信音が届く(最初の「プ」のみ)。

 つい先ほど起きたので、これを思い出しました。

◆戸棚の書籍や皿が理由なく落ちる。

◆テーブルの上のペットボトル(中身入り1.6L)が突然倒れる。

 きりが無いので、この辺にしますが、明らかに自然や物的環境のせいではないものも含まれます。

 こう書くと、殆どの場合、「そこまで異常ではない」と見なされると思います。

 多くは「これは何か悪いものが関わっているかもしれない」と思う疑念から生じます。実際には存在しないものを創り出すことがありますので、まずは冷静になることから。

 

<悪縁への対処>

 さすがにその場では驚きますが、私の場合は、神棚にお神酒を上げ、お焼香をし、「びっくりするから、そういうことは止めてくれ」と頼むだけです。

別段、「凶事の予告ではない」と思えばよろしい。

 小説や映画ではなく、「現実に起きる出来事」としては極めてレアなものですが、殆どの場合は、対応を間違えぬ限り、そこから先に進むことはありません。

 何らかのメッセージだと思えばよく、あとはそれがどういう意味なのかを考えることが大切です。

 

<三つの原則>

 さて、上記のような「異常な事態」が起きることは、現実にはごく稀だろうと思います。

 でも、仮に「起きていた」らどう対処するのか。

 自身の経験から、自分なりの対処の仕方を会得するまで長い年月を要したわけですが、そこで得たのが、「三つの原則」です。

 

「怖れぬこと」:これは前述の「ごく普通に起きることだから、どうということもない」と見なすことに繋がります。あの世が存在し、幽霊もいると認めてしまえば、それが普通の状態になります。

 また、凶事と悪縁の間には、直接的な因果関係がないことが大半です。悪縁は専ら、心に語り掛け、前向きの気持ちを損ねさせますが、やれるのはそこまで。

 嫌なこと、不都合なことが起きたり、病気や事故・災難が続いたりすると、つい結び付けて考えてしまいがちなのですが、そのこと自体が負の効果を生みます。

 

「敬意を払うこと」:生と死は連続したもので、人は必ず死に、自身も幽霊の段階を経ます。いわば、幽霊は自身の将来の姿になります。それなら、人に対するのと同じように、敬意をもって接すれば、相手もこちらを尊重するようになります。

 これは大半の人が怠っていますが、私は悪意のある幽霊でも、必ずお焼香をし、「あなたが安らかな気持ちになれると嬉しい」と語るようにしています。

 祈祷を職とする人に悪縁を祓って貰う手段もあり、実際に有効なこともありますが、ご自身が解決努力を継続しないと、いずれ再発します。これは祈祷が「念」により、悪縁を力で押し退ける性質のものだからで、ある意味、「殴りつける」ことと同じだからです。すなわち、祈祷(お祓い)はあくまで緊急避難ということです。

 異変、凶事が起きる原因には、「障りを冒している」場合があるのですが、多くはあの世の者をないがしろにしている。古くからの地縁宿縁を無視するか知らぬことで障りを生じさせる場合があります。

 

「興味本位に立ち入らぬこと」:これは上記のふたつを言い替えたものですが、今回はあまり関係がありません。少し幅を広げれば、「あまりあの世の因果と結びつけて考えぬようにする」という意味もあります。

 

<まず最初に心掛けること>

 さて、こういう時には、何かしら原因があるので、まずは身辺をきれいにし、様子を見ることです。

 ご自身の家族が持っている信仰に従い、先祖のご供養をすると、気持ちが落ち着きます。

 仏壇回り、神棚を清浄に保つのは言うまでもありません。

 時々、墓参りに行くのを心掛けることも大切です。ご先祖は唯一、「自分のことを守ってくれ」と願うことの出来る相手です。

 なお、神社やお寺で祈願するのは、「お金が入りますように」、「出世できますように」、「病気が治りますように」ということではありません。

 願望を他力で「成就させてくれる」のは、神や仏ではなく悪縁の方です。

 よって、神社やお寺では「困難に打ち勝つことの出来る強い自分で居られますように」と祈願します。

 「合格させてくれ」「金持ちにしてくれ」「治してくれ」は、ただの願望で、現状の改変・改善には繋がりません。

 

天照大神

 日本人一般の主神は天照大神なので、東向きの日光が入る部屋にこのお札を貼り、日夜手を合わせると良いです。天照大神は太陽なので、基本的には他の信仰と背反することがありません。

自身やご家族についても、なるべく「陽の光を浴びる」ことを心掛けることです。

 「掌を上に向け、日差しを当てる」という祈祷の方法もあり、実際にエネルギーを感じると思います。

 これは一分程度でも役立ちますので、容易に実践できます。

 

<自然水>

 神棚に「お神酒」を上げ、仏壇に「お水」を備えるご家庭が多いと思いますが、もう一つ、「枕元に水」を置く作法もあります。何かしら理由があり訪れた者に飲んで貰うもので、「心づくし」であり「おもてなし」の意味になります。

 カルキは毒なので、極力、カルキを抜いたものを置きますが、当面はミネラルで宜しい。無ければ、水道水を煮沸した白湯で構いません。

 眠る前に「いつも見守って下さり有難うございます」と、言葉に出して供えると、割合、はっきりした効果が表れます。

 悪縁の接近を感じる場合は、逆に「私には助けられませんので、どうか離れて下さい」と告げます。

 

 水を供えるだけでなく「飲む」のも良いでしょう。

 これには、体内の「水循環を良くする」という意味もあります。

 もちろん、カルキ抜きのもので、なるべく自然水(湧水)を飲用する習慣を持つと流れが良くなります。

 

 このブログに幾度か記していますが、湧水を飲むようになったはっきりとしたきっかけがあります。

 数年前に、岩手の御堂観音の近くを車で通り掛かったのですが、持病の筋膜腫が痛み出しました。

 「少し休憩しよう」と駐車スペースを探したのですが、その時、「泉の水を飲めば治るよ」と女性の声で言われたのです。

 そこで観音さまにお参りし、「ゆはずの泉」という北上川の源泉で水を飲んだのですが、痛みが無くなりました。

 実家が隣町にあるのですが、水を持ち帰って、それでコーヒーを淹れて、再度飲みました。

 すると、夜に酷い下痢が始まり、七八回はトイレに行くことに。

 「煮沸したのに、当たることがあるのか」と不思議に思ったわけですが、どうやら体内の毒が流れ出た模様。その後、数か月で腫瘍が治りました。

 つい最近まで痕跡が残っていたわけですが、それも無くなり、今は完治しました。

 要因はふたつ。

 ひとつは、湧水(自然水)を飲むことが体質改善に繋がったこと。岩手を訪れる度に泉に赴き、水を汲んで飲むようにしたことと、極力、カルキ抜きの水を引用するようにしたこと。

 これは自己免疫の強化による効果だろうと思います。

 もうひとつは、私独自の感性が関わっています。

 観音さまに入った時には、霊的現象がフルコースで出ました。煙玉(光玉)が現れ、画像には、霧が立ち込め、いない筈の女性の顔が写っていました。

 おそらく「声」と関係していたのだろうと思います。

 それから、本腰を入れて、「あの世」の観察を始めることになったのです。

 極力、注意、着目して眺めるようにすると、普段の生活の中には、何かしらメッセージのようなものが沢山含まれていることに気付きます。

 繰り返し、「瞼を開いて見て、耳を欹てて聴く」ことを書いていますが、これは意味があるかもしれぬことを「疑え」という意味になります。(ここは三原則遵守の上で)

 歩を進めると、少し「怖ろしく」思うことが増えるのですが、その反面、危機を事前に察知することが出来るようになるようです。私はまず「来るべき危機の報せ」を疑い、先手で対策を打つようにしています。これがかなり役に立ちます。

 

 なお、御堂観音への訪問で「腫瘍が治った」と記したのですが、これは「そこに行って水を飲めば治る」という意味ではありません。そういう考え方は基本的に誤りで、これを謳った信仰の発信源は誤謬を冒しています。信仰を持たぬ者にとって、お守りやお札は、ただの紙と木で、泉の水は、それ自体はただの水です。物に効能は無く、心の方にそれはあります。

 自己免疫を高めるのは、あくまで「自己(本人)」となるわけですが、今のところ、五六人に飲んで貰い、下痢をすることが出来たのは一人だけです。

 

 私はその理屈が分かったので、日頃は片道一時間くらいで行ける湧水地に赴き、ポリタンク一杯の水を汲んで来て、それでコーヒーを飲んでいます。

 少なくとも体質改善には現実に役立つようです。逆に言えば、自身の体質に合った自然水で循環をよくすれば、免疫力が高まる可能性があるということです。

 免疫力を上げるスイッチは、その人によって様々なようで、「残りの日々を楽しむために」景色の良い場所を訪れるようにしていたら、重い持病が自然治癒したという人もいます。

 「何と美しい景色だろう」と感動することで、「スイッチが入った」のではないかと言われています。

 

 さて、あれこれ多くを書いても整理がつかなくなるばかりですので、「差し当たって心掛ける」注意事項については、これくらいにします。

 最後に、以上をひと言で締め括ると、次の言葉になります。

 

 「困った、困った」と頭を抱え、救いを求めて右往左往するより、「これくらいの不幸や苦労は自分や家族にとっては何でもない。皆で力を合わせて立ち向かおう」と思うことです。

 

 私は常々、「願うことと信じることはまったく違う」と書いていますが、「自力で乗り越えよう」「身近な者で力を合わせて乗り越えよう」と「心から思う」ことが真の「信じる」ことだろうと思います。

 神や仏、霊的なものはその後について来るもので、それと同時に悪縁が去って行きます。

 

備考)私独自の対策について若干補足します。

 今回は「幽霊(幽界の霊)」についての言及はほとんどしませんでしたが、私は目視することもあれば、画像にも残ります。好奇心の対象となり、拡散する惧れのあるものについては、公開していません。

 公開している画像にも、悪縁(悪霊)が多いように見えていると思います。

 これらについて「怖れぬ」のは勿論ですが、私の場合は「敵と見なさない」ようにしています。要は「戦わない」「争いを仕掛けない」ことで、「お互いに線を踏み越えて出ないようにしよう」と呼び掛けることにしているのです。

 よって、これらを眼にした時は、普通にご供養をしています。

 楽しくはありませんが、別段、何も起きません。