日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

二戸宮野城(九戸城)にて その2

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本丸の中をぐるっとひと回りすると、絶壁になってます。宮野城が難攻不落だったのは、川沿いの方向が絶壁だったからで、大手門の方角からしか攻められません。
逆に本丸からは見晴らしがよく、外堀、内堀の水を抜こうと近付くと、狙い撃ちできます。
本丸の物見櫓からは、大手門のはるか先の方まで見渡せたと言います。

城攻めは旧暦の9月の初めで、太陽暦だと10月の下旬くらいになると思いますが、この地ではもうじき雪が降ろうかという季節です。
攻める方も夜はかなりキツかったはずですね。
後方に布陣する小屋番以外は、勝手に火を焚くことも許されなかったのです。
おそらく周囲にいる者が互いに寄り添って暖を取ったのだろうと思われます。

早く終わらせようと、雨霰と鉄砲を浴びせたはずですが、上向きで撃たねばならず、多くは本丸を飛び越して川の方へ飛んだのでしょう。
しかし、なにぶん6万もの包囲陣です。
城主の政実が開城を決意せざるを得ないほど、中では被害が出ていたのだろうと推測できます。

この戦の当事者の残した記録はたった1つで、浅野長吉の書状です。
これには、政実他降人の他に、城中の者を百五十人ほど殺したとあります。

「なで斬り」に遭った人数については、蒲生氏郷の家来の伝では、二千人。
60年ほど後に書かれた南部藩の記録では、五千人となっています。
開城より前には、1千人以上が戦死していたでしょうから、二千人くらいが城の中で死んだというのが、実際のところなのかもしれません。

そうなると、ここに勘定されない「三千人はどこへいったのか」を想像したくなります。