日刊早坂ノボル新聞

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(北斗英雄伝)宮野(九戸)城包囲戦の布陣

「九戸戦始末記 北斗英雄伝」では、現在、篭城戦の真っ最中です。
これまで伝えられてきた上方征討軍の布陣は、ものによって極端に異なります。
 
1)馬渕川の西岸には、大浦為信、安東実季など出羽・津軽の諸将が布陣していたとする説
 最も信頼性が高いとして、採用されることが多いようです。
2)馬渕川の西岸には、誰も陣を構えていないという説
 この位置では、直接戦に関わる事がなく、ただ見ているだけです。城から見ると、かなり下のほうに位置しています。よって不要だったという意味でしょう。
 
面白いですね。
この構えを見ながら、蒲生氏郷堀尾吉晴が城に向け矢玉を盛んに発射しているさまを思い浮かべました。
大手門を中心に東南の方角から攻撃するしかなかった筈ですが、そうなると城への射撃は「上に向かって撃つ」という感じになります。
多くは城の上を跳び越してしまったことだろうと思います。
矢は大して飛ばないわけですが、鉄砲であれば、高い位置から上に向けて撃っているので、かなり遠くまで飛びます。
なるほど、ことによると流れ弾が城下の馬渕川あたりまで到達した可能性があります。
 
なぜ、ここに誰もいなかったとする説が生まれたのか。
それは、ここにいると味方の撃った銃弾により傷付いてしまうから、ということです。
 
開城の前夜、宮野城からは大勢の人々が城を脱出して、北西に逃れ出ます。
三方が川という、篭城戦に際し、利のあった地形が、ここでは不利を招くことになります。
要するに逃げ道は、橋のある方角しかありません。
しかし、出羽方面だけで、九戸党の末裔と称する家は1千を超えますので、逃げ出した人はかなりの数だったろうと考えられます。
黙って通してくれるルートが無ければ、これは不可能です。
 
となると、大浦為信、石田三成のラインが思い浮かびます。
都合の良いことに、伝説上の布陣でも、北西には大浦為信がいました。
事実上、九戸政実と同盟関係にあった為信であれば、城から落ちてくる人々を「黙って通した」ことだろうと思います。
この位置に、大浦為信がいたため、多数の人々が難を逃れられたわけです。
城の中には、篭城の当初は5千人を超える人々がいたが、開城してみたら人は思いのほか少なかったという説もあります。
 
石田三成が実際にここにいたかどうかは不明です。
ことによると、羽柴大納言(秀次)と共に、三の迫あたりに留まっていたのかもしれません。
ただし、資料らしき物はないようですし、立場上は蒲生氏郷らと同じ「軍監」の1人の位置付けです。よってこの物語の中では、三成は大浦為信の後方に布陣していたとしました。
(この辺、小説は融通が利きます。また、九戸戦に関する大半の資料は、総て伝説に過ぎません。)
 
次図は、宮野城包囲戦の当初布陣図です(その1)。これが変化して、開城前夜には北西方向に大浦・石田のラインが出来ます。(→その2は「北斗英雄伝」公式HPへ。http://www.goemonto.rexw.jp/ )
 
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