日刊早坂ノボル新聞

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「北斗英雄伝」の世界 その2 (盛岡タイムス紙 1月1日号掲載)

☆風雲・散花の章
疾風一行は三戸を脱するが、すぐに東一族の追手に追いつかれそうになる。しかし、三戸城中で疾風と東一刀斎との試合を見ていた工藤右馬之助が、道を先回りして待っており敵を追い払う。一行は右馬之助の手引きで、二戸宮野城へ入る。
宮野城では、一戸図書や津村伝右衛門ら戦国を生き抜いている様々な地方領主を眼にする。
 
正月十二日になると三戸南部では年賀式が開かれた。三戸南部は、この式に参礼しない「九戸政実らの叛意が明らか」であると決めつけ、直ちに宮野城への攻撃命令が下された。
 十五日に出陣、十七日には城攻めが開始された。宮野城内の守備は手薄だったものの、工藤右馬之助の軍略により、九戸党は三戸勢を撃退した。
 疾風一行は、政実が自ら率いる「九戸の黒騎馬隊」を初めて目にし驚嘆する。
 
南部信直による九戸侵攻を撃退した後、小康状態のまま閏一月を経て二月になる。法師岡館主・櫛引清政は自領に帰り、兄の清長にそれぞれの息子が一人ずつ戦死したことを伝える。兄弟は報復を企図し、櫛引一族だけで、九戸攻めの惣大将であった南盛義のいる浅水城を攻めることを決めた。
 櫛引の先発隊はわずか三十騎で、城の手前で南弾正の待ち伏せに遭い退却する。南はすぐさま追跡を開始したが、気がついた時には櫛引領の奥深く入り込んでいた。
櫛引先発隊の退却は計略であり、南盛義は弟康政とともに櫛引の本隊に囲まれ、命を落とした。

 疾風は岩手郡の山館で長い闘病生活を送っていたが、ようやく回復する。治癒後、山桜見物に出掛けた疾風と葛姫は、岩泉の黒狼に遭遇するが、疾風はこの長年の宿敵を倒した。
狼との戦いの後、疾風の陰にお晶の存在を感じ取った葛姫は、自らの思いを告白する。

☆雷鳴・春時雨の章
 山館に戻った疾風は、政実からの登城の要請があることを聞き、すぐに日戸郷を出発する。沼宮内では小柄な相撲取り・山ノ上権太夫、小鳥谷では孤児を拾っては寺に届けるお芳など、懸命に生きる人々に出会う。
 一戸の町を出たところでは、毘沙門党の赤平兄弟の妹・紅蜘蛛お蓮一味が待ち構えていた。疾風は七八人を倒したもののお蓮は取り逃がした。
 二戸宮野城に到着すると、疾風は政実から子ども一人を津軽大浦城へ連れて行くことを依頼される。その子は素性を隠しているが、政実の長男の鶴千代(文中の仮称は鶴次郎・後の九戸市左衛門)であった。

 一方、北奥の情勢はさらに緊迫しており、南部信直の手の者が各地を徘徊していた。 
九戸党は上方から三戸に鉄砲が届く前に、北郡の七戸家国、櫛引との連絡を確保すべく、伝法寺城、苫米地館を攻め、一戸城を無血開城することを企図していた(資料図)。
 疾風は、政実から預けられた鶴次郎少年、三好平八と共に津軽に向け旅立った。

 三月の初め、南部信直うたた寝から醒め、前の年に小田原で拝謁した秀吉のことを思い出した。秀吉は大そうな勘気の持ち主で、信直の目前で、自らの意に添わぬ侍女を危うく絞め殺すところであった。
「今のままでは関白の不興を買い、改易にされかねぬ」と考えた信直は、北秀愛を呼び出し、九戸党の征伐を重ねて命じた。
 疾風は平八、鶴次郎と共に津軽に向うが、その途中、陽気な相撲取りの山ノ上権太夫が一行に加わる。四人で鹿角に立ち寄ると、そこで大湯四郎左衛門と偶然再会した。
太夫は大湯八幡の相撲大会に出ることになる。 
太夫は試合に勝ち残り、毛馬内勢の巨漢・成田彦右衛門や浅石清四郎を倒した。
 大湯では、自らの一族の危機を悟った四郎左衛門の計らいにより、疾風一行に大湯勘左衛門夫婦らが加わった。
一行はさらに北上するが、小坂で毘沙門党の窮奇郎、紅蜘蛛が襲ってくる。疾風はこの攻撃を切り抜け、津軽大浦城に入るのであった。   (続く)
 
◇この後の展開◇
 三月の初旬には、政実による一戸の無血開城と、伝法寺、苫米地戦が勃発する。
 北秀愛との一戸攻防戦の後、五月の法師岡館の戦を経て、秀吉による第二次奥州仕置きが発令される。
 九戸政実は豊臣との全面戦争を決意する一方で、北奥の民を一人でも多く守り通すことを念頭に置き尽力する。