日刊早坂ノボル新聞

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「北斗英雄伝」の世界 その1 (盛岡タイムス紙 1月1日号掲載)

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「北斗英雄伝」の世界     早坂ノボル
◇正月特集:九戸政実とその時代◇
☆謎の多い「九戸の戦」 
 北奥(岩手・青森・秋田)に生きる者にとって、九戸政実ほど想像心を掻き立てられる人物はいない。改めて言うまでも無く、九戸政実は戦国末期にあって、天下人・豊臣秀吉に屈そうとせず最後まで戦った北奥の国人である。
天正十九年秋。政実の立て篭もる二戸宮野城(白鳥城、九戸城とも言う)を包囲した豊臣・南部連合の軍勢は兵六万余人に及び、城内の五千人の十倍を優に超える兵力であったとされる。
 明らかにこれは無謀な戦いに見える。歴史家の多くは、判で押したように「九戸政実は時代の趨勢をまったく読むことができず、欲心から無謀な戦いを挑み滅した」という論評を加えてきた。
 しかし、九戸戦に関する記録は、その大半が、この戦の後、百年を経てから書かれたものである。さらには、ひとつ一つの事柄につき五六通りもの、全く異なる事跡が記されている。
 この相違がもたらされた理由は実に単純で、藩政時代になり、盛岡藩が自藩にとって都合の良いように史実を編纂し書き換えたことによる。
このような書き換えや捏造は、南部盛岡藩に限らず、津軽弘前藩でも同じことが行われた。このため、各々で相反する「史実」が残される結果となり、本来当事者的立場であるはずの南部、津軽、八戸家伝として記されたものには相違点が数多く存在する。
 宮野城の遺跡調査等により、九戸戦が「実際にあった」ことだけはかろうじて確かであるが、その他の詳細については依然としてよくわからない。
 政実はなぜ戦ったのか。
この謎を解く鍵は、南部家や津軽家の息の掛かった文書の中にはなく、直接的な利害関係の影響の少ない北奥もしくは糠部郡の外側に残された断片的な記録や口伝にあるはずである。

九戸政実の人物像
寛政重修諸家譜』では、浅野家伝として、九戸政実が浅野長吉(後の長政)に申し出た降伏の条件は、一に「南部信直の所領の安堵」だったと書かれている。浅野長吉は九戸戦における攻め手の大将であり、明らかに三戸サイドになるはずの記述の中で、この箇所がとりわけ異彩を放つ。
 九戸政実にとって、南部信直はその実父石川高信以来の二代にわたる宿敵である。そのためこれは、自身が降伏するにあたり、己や家臣の命や領地よりも、宿敵である南部信直の所領を安堵してくれという申し出であったことを意味する。
 この一文により、政実の戦いは領土欲によるものではなく、ましてや天下取りを目指そうとしたものなどでないことは明白である。

豊臣秀吉陸奥
 天正十八年の小田原攻めの際、豊臣秀吉は参陣の下知を全国に回し、これに不参であった北奥諸候の領地を没収した。加えて「従わぬ者はなで切り」にせよと命じ、実際に陸奥に向け五万人の兵を送った。
 この結果、葛西・大崎および和賀、稗貫はいずれも改易(または暫定的な領地替)となり、結局は大半が滅することとなった。 
これに対する不満と、占領軍の圧政により直ちに一揆が起こったが、この争乱は年を越え天正十九年に続いてゆく。
 陸奥各地における一揆平定の流れの中で命を落とした民衆の数は、一説によれば総数二万人とも四万人とも言われる。しかし組織的な抵抗を組み立てられなかった多くの一揆については、その首謀者の名前すら残されていない。要するに秀吉の言葉の通り皆殺しにされたのである。
 陸奥における豊臣秀吉の姿は、江戸以降物語の中で形作られてきた「人の良い猿」などではなく、「殺戮者」そのものである。
 陸奥には口碑による秀吉伝として「左右の黒眼が二つずつあった」ことが伝えられるが、これは「悪の権化」たる秀吉の姿を後世に残そうとする民意であり抵抗であったと考えられる。
 ただし、秀吉には「右手の親指が二本あった」という伝承もある。こちらは秀吉に近しい前田利家が書状に記していることから、ほぼ事実であろう。「黒眼が二つずつ」という言質も、虐げられた民による誹謗の類とは片付けられぬのかもしれない。

南部信直の人物像
 南部信直は、父・石川高信、伯父・南部晴政の間にあって、南部家後継の地位を勝ち取るまで幾度と無く窮地に陥った。
 この苦境を生き抜くために信直が身につけたものは、狡猾なまでの細心さと交渉術であった。
 天正十八年の秀吉による「領知安堵」より前には、信直は北奥の有力諸侯の一に過ぎなかった。秀吉の下知を受けた後、信直は周辺の諸侯に対し「不参で構わぬ」との書状を送る。しかし自らは八戸政栄と合議の末、政栄に後を任せ、小田原に参陣した。この結果、信直自らは北奥七郡の領知安堵状を得ることになるが、これはもちろん北奥諸候の反発を招くことになった(資料図 法
この時、信直は秀吉が自らに課した参陣の踏み絵と全く同じ手法を用い、天正十九年正月の年賀式への参・不参をもって敵味方を色分けした。
 九戸戦の後になり、宮野城は蒲生氏郷の手により改修され、不来方城の完成まで南部氏の居城(福岡城)となるが、信直は本丸には住まず、専ら城郭の外の「松の丸」に滞在した。これは即ち、自らが謀殺したに等しい政実が、かつてそこで暮らしていた本丸は「恐ろしかった」ということである。信直は細心・狡猾であり臆病な性格でもあった。

◇これまでのあらすじ◇ 
葛姫・残雪・悪鬼・末摘花の章
天正十九年の正月。姫神山の麓に住む疾風(厨川五右衛門)のもとに、玉山重光とその甥の小次郎が訪ねてくる。彼らの用件は当地の領主・日戸内膳の命により、疾風に対し内膳の三女・葛姫の守護と東方の見張りを任じるものであった。疾風は二人とともに葛姫の住む山館に向かうが、そこで会ったのは眼の青いアイヌの姫であった。
疾風と小次郎は内膳の密命により、三戸偵察に出発する。
 山館を出発した疾風と小次郎は、早坂峠を越え、岩泉の畝村(現在の国境峠付近)に差し掛かる。この地は旅人を襲って金品を奪う毘沙門党一味がたむろするところで、疾風たちも襲われそうになるが、疾風は盗賊をあっさりと切り捨てる。
 疾風、小次郎は盗賊がそりに載せていた瀕死の女人(葛西衆の一族)に頼まれ、その地で出会った上方侍の三好平八と共に、子ども二人(市之助と雪絵)を捜しに向かう。首尾よく男児一人を見つけ出したが、気がつくと狼の一群に囲まれてしまっていた。一行は窮地に陥るが、疾風の策により狼の攻撃を切り抜ける。
 
その夜、三好平八は前年の登米寺池城で起こったことを夢に見てうなされる。
 目覚めた平八は、疾風たちにかつて自らの見た豊臣秀吉の姿を語るが、秀吉は手指が六本、黒目が左右二つずつの凶相の持ち主だった。
 一行は畝村を出発し、夕方になり伊保内に到着した。ある寺に一夜の宿を請うが、この寺は長興寺という名の寺であった。疾風たちが門外で剣の稽古をしていると、住職から「五郎」と呼ばれる男が現れる。
疾風はこの五郎と弓の腕を競い、自ら負けを認めた。この五郎が誰あろう九戸政実その人で、この寺は九戸家の菩提寺なのであった。

疾風一行は三戸に到着し、情報収集のため、伊勢屋という娼館を訪れる。そこには「おへちゃ(末摘花)」と呼ばれる娘・お晶がいた。
 お晶は、一見すると不器量だが、下女の仕事までこなす働き者であるうえ、源氏物語を諳んじるような賢い娘である。お晶は、その実、六年前の津軽・田舎館城の戦いで死んだ千徳掃部の一族なのであった。
 翌朝、伊勢屋には岩泉の盗賊が復讐のために押し寄せる。疾風は首領のほか主だった者を斬った。
盗賊退治とはいえ街なかで人を斬るのは法に触れる。このため疾風は調べのため、三戸留ヶ崎城に招致された。しかし、そこでは北信愛の策謀により、東一刀斎という剣士と決闘させられることになった。
疾風は北信愛の企みにより重傷を負わされるが、この決闘で東を倒す。試合の後、疾風は三戸侍に囲まれるが、大湯四郎左衛門の諫言により放免となる。