日刊早坂ノボル新聞

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(北斗英雄伝)石田三成は何処に?

 九戸戦に参陣した上方軍の中で、羽柴秀次徳川家康は大崎葛西に留まっていたのは知られていますが、石田三成がどの位置にいたのかということについては、確からしい資料が残っていません。太閤検地の中心人物でもあり、奥州再仕置きの際に、早々と来ていたのは明らかですが、宮野城包囲戦にどのように拘わっていたのでしょうか。
 九戸討伐に当たり、軍監とされたのは、浅野長吉(政)、蒲生氏郷堀尾吉晴井伊直政の4人ですが、さらに石田三成もその1人として加えられています。
 「軍監」の立場で、「包囲戦の際に、城の傍にいなかった」という事態は、ちょっと考え難い所です。
 
 九戸戦の記録が作成されたのは、江戸になってからで、実際の戦から70、80年も後の話です。そうなると、もしかして石田三成は、その業績ごと意図的に消されてしまったのではないか、とも感じます。
 「九戸戦始末記 北斗英雄伝」では、後方で物資調達の任に当たっていたと仮定し、その位置を大浦為信の北西と定めました。
 本作による全くの創作なのですが、その後の大浦為信との密接な関係を思えば、なきにしもあらず、でしょう。
 大浦(津軽)為信は、後年、石田三成が敗れ去った後、その一族や家臣の多くを引き取っています。