日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

蒲生氏郷はかわいそうな人

 九戸の戦いで、上方軍の主力は3万騎の兵力を擁した蒲生軍で、実際に最前線で戦ったのも蒲生軍だったようです。
 
 蒲生氏郷は優秀な人物で、織田信長は初対面で「コイツは俺の娘婿に」と氏郷に冬姫をやることを決めてしまうほどでした。
 後に秀吉により黒川(若松)を与えられますが、氏郷は若き伊達政宗が暴走しそうになるのを見抜き、常に背後で牽制していました。
 ちなみに、天正末期の伊達政宗の領地は出羽山形になってます。政宗が大崎葛西の一揆を扇動していたことを見抜かれ、敢えて葛西大崎に領地を替えさせられたのです。

 かたや氏郷の処遇については、秀吉は「もし自らの地位が危うくなるとしたら、きっとコイツ」だと考え、わざと氏郷を遠ざけたという説もあります。

 氏郷の手腕は確かで、葛西大崎一揆や九戸の戦いで戦功を上げましたが、文禄の役の際に、名古屋出陣中、癌のためあっけなく死んでしまいました。
 豊臣秀吉がいかにサイテーかと言うと、氏郷が死ぬと、すぐに妻子の前に現れ、子どもたちが見ている前で母親を犯したこと。
 氏郷の妻は信長の娘なので、どうしても踏み越えたかったのだろうと思うけれど、何の落ち度も無い忠臣の家族に、まともな男がそんなことをするでしょうか。
 秀吉にすれば、自分は土民の子だったので、代々侍の血筋だった信長の娘は高嶺の花でした。
 また、信長は家来としては秀吉を重宝したけれど、絶対に「娘をやる」などとは言わなかった。
 それが伏線としてあったのだろうけれど、信長が秀吉を絶対に身内に入れようとしなかったのは、そんな本性を見抜いていたからだろうと考えられます。

 蒲生氏郷の没年は40歳(満で39歳)で、辞世の句がこれ。

 限りあれば 吹かねど花は 散るものを 
 心短き 春の山風

 「心短き」の擬人表現が秀逸です。
 氏郷が命を永らえていたなら、秀吉の没後、天下がどうなっていたかわかりません。

 秀吉や政宗は、調べれば調べるほど「サイテー野郎」なのですが、まともな人間はやっぱり早死にしてしまいます。
 なお、蒲生氏郷は、九戸では予想外の苦戦を強いられたらしく、「氏郷記」には、激戦のあった地でのことには一切触れられていません(これも所詮は軍記物ですが)。沼宮内城では、単なる軍議のため、上方軍が4日間滞在したことになっていますが、これはウソで、九戸方の手中にあった城を攻め落とすのに、かなり手古摺ったのです。  
 何故何も書かないかというと、書くと都合が悪いからということです。
 戦後、氏郷は南部大膳の許に、家来を送り込み、情報が漏れないように監視させた模様です(あくまで推測です)。