日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

夢の話 第190夜 城址公園にて

先ほど、昼食後に20分ほどうたた寝をしたのですが、その時に見た夢です。

我に返ると、パイプ椅子に座っていました。
ここは屋外で、きっと公園のような場所です。
「きっと」と言うのは、目の前には幕が張ってあり、ほとんど空しか見えないからです。

下を向くと、私の手はしわくちゃでした。
「あ。オレって年寄りなんだ」
ここで、脇から声を掛けられます。
「じゃあ、そろそろですので、よろしくお願いします」

「そろそろ」って、何がそろそろなの。
よろよろと立ちあがると、40歳くらいの女性が私の横に寄り添いました。
手を取って、歩みを手伝うその女性を見ると、なんだか見たことがあるような気がします。
「ねえ。あんたは私の奥さんだっけか」
その言葉を聞き、女性はくすっと笑いました。
「お父さん、しっかりしてよ。これから挨拶しなくちゃならないんだからね」

娘に手を引かれ、講演台の前に立ちます。
顔を上げると、前には数千人の人がいました。
「参ったな。何か話さなくてはならないらしいが、すっかり忘れてしまった。オレもついに呆けたようだな」
周囲を見渡すと、この場所には見覚えがあります。

(あ。ここは沼宮内城だ。)
城址公園の北郭の中です。
でも、草ぼうぼうの姿ではなく、きれいに整地してありますし、建物も建っています。
(なるほど。この城跡がきれいに作り変えられたので、ゆかりの人物の1人として呼ばれたわけだ。)
ようやく頭がくるくると回り始めます。
「祝辞を言えば良いわけだな」

30秒ほどで、考えをまとめます。
3、4分で済む話が良いでしょう。

「第1話である「北斗英雄伝」を書く直接のきっかけになったのが、この城です。
盛岡藩の言い伝えでは、沼宮内城に上方軍5万騎が入城し、南部利直を交え軍議を開いた、とあります。
ところが、見ての通り、ここに入ることが出来るのはせいぜい数千人です。
城下の道や、さらにその下の道まで含めても、1万騎すら寄せることが出来ません。
おかしな話です。
ところが、岩手郡の伝説には異説があります。
九戸戦当時、この城は九戸党により支配されていたと言うのです。
「軍議を開いた」とは正反対の言い伝えになります。
これを確かめるには、掘ってみるのが一番です。
南郭の崖下を1暖召曚彪,襪函⊂討嬰擇涼倭悗出てきますが、これを見れば一目瞭然です。
この城は九戸戦の翌年に破却になっていますし、それ以前にはここで戦が起きたことはありません。
すなわち、南郭が焼けたのは九戸戦の時のことです。
要するに、天正19年の夏においては、この城を支配していたのは九戸党で、上方軍がこの城を攻めたので、焼け跡が残っているのです。
上方軍5万騎は、軍議を開くためにここに来たのではなく、攻め落とすために来たのです。
盛岡藩では、かつて南部方が劣勢であったことを隠すために、「軍議を開いた」という話を作り上げたのでした。」

17世紀の半ばごろに、藩史や家伝が編纂され始めると、過去のねつ造が行われます。
歴史は常に支配者のものであるからです。
ま、いかに盛岡藩がねつ造しようとも、秀吉ほどの変え方はされていません。

ここでコップの水を飲み、周囲を眺め渡します。
斜め後ろには、ライトアップされた高台があり、大きな岩のモニュメントが置かれていました。
「ああ。あれは権太夫の・・・」
私には、その岩を押し落とそうとする権太夫の背中の筋肉がはっきり見えました。

ここで覚醒。

先日、沼宮内城を再訪した時、あまりにも草ぼうぼうで、見回るのが大変でした。
他の多くの城と同じですが、「ここに今もきれいな城が残っていたなら、この地に住む人々の心の寄り所になったかもしれない」と思いました。
そのことが頭に残っていて、この夢になったのでしょう。

程なく第4巻を印刷に回します。
「赤蜻蛉」は、この沼宮内が舞台です。
城下に蒲生軍の松明の火が満ち溢れているのを見た仙鬼が、隣に立つ権太夫に呟きます。
「きれいだね、権太夫。この沼宮内の地に、こんなにも光が満ち溢れるのは、後にも先にもこれっきりなのかもしれないね」
「北斗英雄伝」は殺伐とした話で、続編に進むに従って、陰惨な復讐譚になっていくのですが、この章は唯一と言って良いほど抒情的な話になっています。