日刊早坂ノボル新聞

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(北斗英雄伝)沼宮内城を再訪しました

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「九戸戦始末記 北斗英雄伝」の第4巻は、既に版下は出来ているのですが、手元で止めています。
その理由は、「まだ納得できないところがあるから」です。

その1つが沼宮内城の攻防戦となります。
とりわけ、城の南郭については、幾つか謎があります。
北郭と南郭の間には掘割がありますが、これを渡ると、南郭には樹木がうっそうと茂る荒地となります。
400年前には、もちろん樹木は無く、何かしらの建物があったのだろうと思います。
そうでないと、わざわざ郭を形成する理由がないからです。

ところが、仮に平地に整えたとしても、この場所はかなり狭くなっています。
ここは一体何のためにあるのでしょう。
そのことがどうにも納得できなかったので、半月の間、版下を止めてありました。

蒲生軍の主力は、おそらく東から回り、大手門口から攻めます。
しかし、急坂で容易には上れない西側にも、攻め手を配置する筈です。
むしろ、奥州道から攻めるには、西からの方が城の様子がよく見えます。

この疑問を晴らすために、もう一度沼宮内城を訪れることにしました。
画像は、北郭と南郭の間にある掘割を越えたところから、東西の崖を見下ろしたところです。

前回訪れた時も同じことを感じましたが、やはり南郭は基盤から崩れているのではないかと思います。
この印象で、沼宮内城攻防戦の最後の場面を城の爆破にしたわけですが、あながち外れてもいないのかもしれません。
物語の中では、南郭には小さな館があり、坂下に通じる通用口(搦手口)があったと想定しています。

西側の坂には、何本か上り下りできる小道がありますが、主要なものは南郭に続いていたように見えます。
敵に下から攻めて来られることを想定すると、なるほど、主郭たる北郭との間に掘割を設営する必要があったということでしょう。

南郭での戦闘場面は、城の現在の姿より、距離的に見て広範囲に拡がっており、城下の道から攻めるような空間軸に調整が必要かもしれません。
ひとまず決着がつきましたので、もう一度版下を見直した後、印刷に回すものとします。

この沼宮内城址は、今は公園になっていますが、交通の便があまり良くないので、ほとんど人は訪れない模様です。
私は大手門口の手前から、蒲生兵になったつもりで、「ヤア」と声を上げながら、攻め上がってみました。
人が見ていたら、「一体このオヤジは誰?」と不審に思われたと思います。