日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎ご供養

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◎ご供養
 昨日は帰宅して夕食の仕度をすると、程なく寝入ってしまい、深夜まで居間で横になっていました。
 半覚醒状態のまま過ごしたのですが、夢枕に女性に立たれました。手の届く距離です。
 最近は「5丹米發亡鵑辰燭蕁御守刀で切る」と宣言しているので、その言葉の通り、刀を振るって切り捨てました。
 (家人がすぐ脇でテレビを観ていたのですが、さぞ驚いただろうと思います。突然、ダンナが目を覚まし、「エイヤッ」と腕を振り回したのですから。)

 女性の影はヘナヘナと崩れたのですが、何だか悲しそう。
 もちろん、どういう状況であっても、傍に寄られると、こちらが苦しむので、例外なく跳ね除けることにしています。
 すると、すぐにイメージが沸いて来ました。
 子ども(たぶん男児)と一緒にハンバーガーを食べる場面です。かつて、Mのテーブルで母子で食事をしたことを、まだ憶えていたのです。
 (死ぬと、脳が無くなるので、ものを考えられなくなります。記憶もおぼろげになり、よほど強い感情を伴うものしか思い出せなくなるようです。)

 いきなりぶった切ったので、少し可愛そうになり、今日はご供養のためハンバーガーを買って来ました。
 少しでも慰めになれば、執着心を解きほぐすのに役立つと思ったのです。
 テーブルに供えて、「こだわりを捨てて、あの世に向かうといいよ」と念じました。

 私が本当に不思議だと思うのは、こういう感覚について、私自身が「想像や妄想」だと思っていることです。
 証明できる要素のない話で、ほぼ主観から構成されたストーリーなので、まさに「想像の産物」に他なりません。
 ところが、どういうわけか、自分でも気付かぬうちにポロポロと涙をこぼしていました。

 文節の頭で「不思議だ」と記したのは、私自身は、まったく悲しくも何とも無いことです。
 「これは俺の流す涙ではないな」という実感があるので、不思議なのです。
 あながち、単なる「想像や妄想」ばかりではないのかもしれません。

 ハンバーガーを食べた記憶は、たぶん、平成の始めの方なので、今、その男児は20歳台後半になっていると思います。
 どこの誰か分かれば、母子とも安心出来ると思うのですが、既に記憶がほとんど消失しています。