


◎「神金八両」
この品をどこで入手したのかは忘れてしまった。おそらく骨董会だろうとは思う。
これの面白い点は、もちろん、包み紙の記載だ。
「明治八年」という銘があるので、この年に包まれたものらしい。
「銀七十三匁一分」とあるから、重量274.13グラムが包まれていたということだ。
紙包みと共に一分銀(安政)が一枚だけ残っていたのだが、「八両」という記載があるので、一両=四分の換算をすると、「三十二枚入っていた」ということになる。
前述のとおり、七十三匁一分をグラム換算すると、274.13グラムになるのだが、この一分銀の重量は8.61グラムだから、32枚では275.52グラムとなり、概ね合っている。1グラム強の相違があるが、銀地金分のみで計算すると、安政一分銀は90%だから、247.97グラムとなる。よって、銀換算したのではなく、「誤差だった」と解釈する方が妥当だろう。
「どういう記載か」と考えさせられる原因は、江戸時代には「銀は原則として秤量貨幣だった」ことだ。
金銀にはその時々の交換相場があり、これは常に変動していたのだ。
地金そのものに価値を認めていたということだが、そのため銀塊がそのまま貨幣として流通していた。銀を固めた丁銀や丸型の豆板銀がそれである。これは必要に応じ、銀地金を叩き切って小さくすることもある(切銀)。
目方が目安であるから、この品の「七十三匁一分」という時の「分」は「ふん」と読む。
一方、丁銀や豆板銀は、銀品位を落としてもなかなかそれと気付き難いという問題がある。
実際に、時代が下るにつれ、次第に品位を落としたものが作られるようになった。
こういう不首尾を補正するために、計数貨幣として「分銀」が作られた。
品位を幕府が保証した上で、一枚ごとに一定の貨幣価値を認めるやりかたである。
貨幣としての単位は、一両が四分、一分が四朱と定められていたが、天保年間になって始めて一分銀という定額貨幣が作られた。
この場合は貨幣の単位であるから、「分」は「ぶ」と読む。
さてここからが本題だ。
この包みは「誰が」「何のために」拵えたかということだ。
「神金」という表記を見ると、おそらく神社に関連したもので、裏に記名らしき表記が見えるから、神社に向けて奉納したものと推定出来る。(文字が切れているから、まだ確定は出来ない。)
想像するに、状況はこう。
家にこの分銀が仕舞ってあったが、もはや貨幣としての使用は出来ない。しかし、銀地金としての価値はあるから、神社に寄進した、ということではなかろうか。
明治に暮す人の「息遣い」が聞こえて来そうな資料である。
ちなみに、収集家の前にこれを出し、「価値があるのは包み紙のほうで、一分銀は付け足しのようなもの」と説明すると、皆が一様に首を捻った。
収集家のうち十人中十人がとも、一分銀の表裏の桜のかたちを見ていた。
この場合、意味が深いのは紙のほうなのに(ため息)。