日刊早坂ノボル新聞

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◎八戸銭の製造工程

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八戸銭の製造工程    

◎八戸銭の製造工程

 八戸藩および盛岡藩北方(以後「八戸方面」と称す)で作られた貨幣は、今もほぼ未整理のままである。

 大半の収集家や研究者が手を付けぬ理由は、まず主に通用銭が鉄で、みすぼらしいというところにある。

 母銭と通用鉄銭を照合しようにも、鉄銭は面背とも不鮮明であることが多く、細部まで確認出来ない。母銭を集めるよりも、雑多な鉄銭から、当該通用銭を探し出す方がはるかに困難である。

 次に「たたら製鉄」の特殊性が挙げられる。たたら炉は、炉を一回ごとに取り壊して、次の回には別の地に移って、再び炉を作り直す。

 主原料は砂鉄であるが、砂鉄は溶解温度を余分に上げる必要があるので、炭を多く消費する。「一度吹く度に山ひとつ分の木々が無くなる」と言われるほどであるから、炉の場所を移すのは、燃料の確保が一因だった。

 木を切っても、すぐにそれを炭化出来るわけではなく、乾燥させる必要があるから、製鉄にはかなりの準備期間と費用を要した。

 ともあれ、「一回吹いたら、炉を壊す」ため、鋳鉄場所はこの地方には何百か所も存在する。砂鉄を「づく鉄」に変え、これを売るだけでなく、貨幣の密鋳も行ったから、見ようによれば、「銭座」が何百もあったように見える。

 このため、この地方には「銭」や「多々良」に関連する地名が各所にある。

(これには、「ジェニ」はアイヌ語で「小さい」という意味で、「銭」は当て字だとする異説もある。)

 

 幾人かの先人が、この地方の密鋳銭について、報告を記しているが、どうしてもひとつ一つの「炉」に関する記述となるから、非常に読み難い。

 以前、資料として小笠原白雲居著になる『南部鋳銭考』を紹介したが、これを一読すると、まずはほとんどの人の感想は「難しい」ということになるだろう。

 同著は「いつ頃」「どこで」「誰が」作ったという記録を集めたものであるから、それは「鋳銭ごと」「炉ごと」の話になる。炉自体を数えれば、少なくとも七百とも1千とも言われるので、収拾がつかなくなるのは当然だ。

 例えて言えば、樹に沢山の葉が茂っている状態と同じだ。

 葉の根元には小枝があり、その枝は太い幹から枝分かれしている。そういう中で、中心となる太い幹を探して行くのは容易なことではない。

 

 こういう問題を解決して行く手法のひとつが「製作技法」に着目するというものだ。

 密鋳銭で従来型の型分類を行うと、瞬く間に何百種という数になってしまう。

 「葉の茂れるを見て、幹を知らず」ということになるわけだ。

 通用鉄銭の見極めが難しいのなら、まずは母銭をベースに研究を進めればよい。

 何事も当初より「完璧に行うこと」が難しいのであれば、ひとつ一つ駒を進めて行くしか道はない。

 そうなると、最初に目につくのは、母銭の仕上げ方になる。

 

 八戸方面の母銭は、石巻に出稼ぎに赴いた職人が母銭を持ち帰り、それを原母として汎用母銭を作ったケースがあるようで、これは基本、石巻銭と同じ仕上げ方をしている。

 丁寧に仕上げたものは、輪測が蒲鉾型に研磨されている。

 これまで鷹ノ巣の中核銭種とされて来た「鷹ノ巣正様母銭」はいずれもこの処理を行っている。

 また、それを基に作成した母銭には、輪測を横に削ったものがあるが、これは1)銭が小さかったことへの対応、2)材料を節約する、といった目的があったものと考えられる。

 この二つの処理方法は、おそらく同じ銭座内で行われた処理と見なされる。

 

 かたや、輪測を直角に砥石で研ぎ上げた一群もある。主に目寛・見寛といった銭種が中心となるが、これらは、一般通用銭を鋳写しして原母を作り、さらにそれを基に汎用母を作成するといった流れになる。鋳写しを繰り返すことによって、銭径が縮小するが、作業を簡便化するために、棹通しの上、砥石で研ぎ上げている。

 

 以上の二つが工程上の出発点となり、各々は別の組織、工程を経ている。

 要するに、この二つの技法は、同じ銭座で採用されたものではない。

 このため、これまでは、前者をイ)葛巻鷹ノ巣銭、後者をロ)目寛見寛座銭と呼んで来たわけである。

 もちろん、実際の存在状況を見た限りでは、厳密に分けるのが難しいものもある。

 中間種のようなものもあるわけだが、これは「たたら炉」が「その都度、移動して炉を築いた」という特性によるもので、要するに職人が離合集散して出来た現象と見なされる。

 

 ここで初めて『南部鋳銭考』を紐解く。

 あくまで口碑によるものであるが、二戸(葛巻に近接)で行われた銭密鋳に関する記述がある。これによると、葛巻鷹ノ巣座で働いていた「藤八という男が、銭の密鋳を試みた」とされている。

 この時に作った銭が極めて小型の銭で、「藤の実」と呼ばれたこと。

 この記述には拓影が添付されており、これがいわゆる目寛見寛銭だったこと。

 といった根拠で、目寛見寛という銭種を、二戸銭(もしくは藤八銭)と見なすことが可能ではないかと思われる。

 藤八は鷹ノ巣で働いたことがあるから、背千母銭も所有していただろうが、原母として使えるほどの銭容ではない。このため、代用品として一般通用銭から材を取り、汎用母銭の政策に役立てたのではなかろうか。ここはもちろん想像だ。

 今のところ、目寛や見寛に繋がるのは、座寛(⇒目寛)、四年銭小様(⇒見寛)、背元(⇒水永)である。中間種である鋳写し母銭としては、他に縮字や四年銭中様などがあるが、縮字の通用鉄銭は主に通用銭改造母銭を使用したものがほとんどで、四年銭中様は母銭のみで通用銭が見当たらない。要するに「不採用だった」ということだ。

 (四年銭中様の鋳写母銭も所持していたが、盗難に遭い行方不明となっている。)

 

 とりあえず、ここまでは到達したが、この先の見解は地元を中心とする収集家、研究者に委ねようと思う。

 

 花巻での古銭会が終わると、毎回、私はNコインズOさんに呼ばれ、藪屋で蕎麦をご馳走になった。他の収集家が同席することもあったが、二人だけのことが多かった。

 その席で話したことは、八戸を含む南部銭のことで、「どういう眺め方をすべきか」という内容のことが多かったように思う。

 その中で、八戸銭については優先的に仲介して貰ったのだが、総数では三百枚に達すると思う。値段が安くはなかったので、ここはあえて「突っ込まれた」と書かせて貰う。

 もちろん、Oさんには感謝の気持ちしかない。

 

 リポートとして完成させたかったが、まだ情報が足りないようなので、この先の研究は次の人に任せようと思う。

 なお、一切推敲をしない「書き殴り」なので、表記間違い等、不首尾が多々あると思うが、既に足を洗う者なので容赦願いたい。

 品物は順次、「古貨幣迷宮事件簿」にて供与する。

 

(追記)販売リストを更新しました。余裕がなく少しずつですが、「次の入手機会がほぼ無い」品がありますので、早めにご検討ください。

古貨幣迷宮事件簿