日刊早坂ノボル新聞

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◎古貨幣迷宮事件簿 「目寛背千」

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葛巻背千と目寛背千


◎古貨幣迷宮事件簿 「目寛背千」

 画像の最初の一枚は、葛巻鷹ノ巣鷹巣とも書く)の「背千正様」の末鋳母銭となる。

 「正様」の意味は、初期の銭種に「十字銭(千)」があるからだ。

 「十字銭(千)」は、石巻背千を改造して、銅母銭を増やす際に、千字の頭に欠損が生まれたものだ。ごく最初だから銭径の大きなものが散見される。

 この「正様」と「十字銭」は二種ひと組で、鷹ノ巣の中軸銭種になる。

 たまに、「なぜこれが鷹ノ巣銭座と言えるのか?」と言う人がいるが、その答えは、机の上で母銭や通用鉄銭を幾ら眺めていても出て来ない。

 「手の上の銭」で分かることは、似ているか似ていないかだけで、出自に関しては何ひとつ情報はない。

 古貨幣を古銭会や入札・オークションベースで集めているうちは、分類しかやれることはないのだ。

 「何故」「どうして」に類する疑問に関する答えは、足で情報を集める他はない。

 八戸方面銭に興味を持つ人の多くは、鷹ノ巣に幾度も足を運んでいるし、町内の旧家を訪れ、資料を当たっている。

 私も四度、鷹ノ巣に赴き、多々良山までトレッキングしようと試みた。

 地元の人が「途中で何か所かに、ノロが落ちている場所がある」と聞いたためだ。

 ノロとは、金属の精錬を行う時に生じる残滓のことだ。

 しかし、鷹ノ巣から山に入ると、すぐに道は無くなるし、基本的に入山禁止になっている。営林署の許諾を得て、かつ、この地に詳しい人を頼んで同行して貰う必要がある。

 結局、各回とも一時間程度散策しただけで、すごすごと帰宅したが、今はそこで諦めて良かったと思う。

 その付近の山一帯には熊が出るから、独りで分け入るのは危険だ。

 私は熊には出会わなかったが、カモシカには出くわしたことがある。

 カモシカは顔が大きく、昔は「青獅子」と呼んだほどだから、こいつに草の陰からぬっと出られた時には、少なからず驚かされた。

 

 銭座の証拠を得ることは出来なかったが、そもそも大迫や橋野のように、「一か所に集中して工房が建てられている」さまをイメージしたのは誤りだった。

 砂鉄経由の製鉄は「たたら炉」で行ったから、炉はひと吹きごとに壊すことになる。

 一度終わると、別の場所に移動して、再び炉を組むことになるから、鷹ノ巣から多々良山の「いずれか一か所」に銭座があったわけでは無く、山のあちこちに「点在していた」と考えるべきだったのだ。

 そもそも、名称自体が「たたら」の山だ。

 

 町場の方で収穫があったのは、とりわけM家の蔵だった。

 葛巻にはいわゆる「旦那さま」と言われる豪農が二軒あるのだが、そのうちの一軒がM家になる。

 知人を頼り、中に入らせてもらったのだが、参考になる古文書類が山ほどあった。

 詳細を読ませて貰えば、資料を蓄積出来たと思うが、指定文化財の候補に挙がる家なので、民間人の研究に資するのは難しい。

 蔵の内容物詳細は個人宅のものでもあり、ここでは控えるべきだろう。

 

 「たたら炉跡から母銭と通用銭が出る」など、一発で「これ」とする証拠は見つかっていないのだが、状況証拠は数々ある。

 町内で発見された鉄差銭の大半が「正様」によるもので、目寛見寛類は少ない。

 小笠原白雲居の『南部鋳銭考』には、「藤の実」(目寛見寛類)は、「葛巻鷹ノ巣で密銭に従事していた藤八が、二戸に赴き、そこで銭の密鋳を行った」という記載があるが、実際の出現状況は、これと一致している。

 

 八戸の銭密鋳を難しくしているのは、葛巻と二戸での二か所での密鋳に、職人の繋がりがあることによる。藤八が鋳銭を企画する段階で、鷹ノ巣の母銭を流用したことは想像に難くないのだが、目寛、見寛という一般通用銭に端を発する銭種に加え、鷹ノ巣系統の背千類も使用されていたとみられる。

 

 それを端的に示すのが、仕上げ工法の相違だ。

 鷹ノ巣小字背千の輪側は、原則として蒲鉾型をしており、これは石巻銭座の工法と同じである。加えて、石巻母銭の輪を研磨し、銭径を縮小化した母銭も実在する。

 恐らく材料を節約する目的だったのだろうが、このことは母銭を「輪測が直立するほど強く研磨する」という変化を招いた。

 目寛見寛類は、いずれも輪側が立っているから、原則として、蒲鉾型を「鷹ノ巣座」の銭、直立型を「目寛見寛座」の銭とするところからスタートするのが分かりよい。

 

 もちろん、これには中間種もあるし例外もある。

 八戸方面銭には、大人数の職人を集めた銭座でだけでなく、たたら炉ごとの小吹の鋳銭も行われている。通常の銭座のごとく、炉を銭座に準えると、それこそ「何百か所も銭座があった」のような解釈になってしまう。

 よって、密鋳を「銭座」視点ではなく、「職人」視点、すなわち製作の相違を基に眺める必要が生じる。

 

 現段階で未解決の問題は、主に「舌千類」の解釈だ。

 この系統の銭は、葛巻鷹ノ巣座銭から直接派生したもので、おそらくこの座内に出自が求められる。要するに、発生したのがそこだということだが、輪側が直立したタイプの母銭も散見される。

 この解釈は次の通り。

1)鷹ノ巣座内で、仕上げ工法の切り替えが行われた。 

2)鷹ノ巣座の職人が二戸に母銭を持参し、改造を加えた。

3)目寛見寛座の固有銭種である。

 もちろん、いまだ結論は出ていないが、1)か2)のいずれかだろうと思う。

 

 さて、以上は前置きである。

 今回の掲示品は、イ)葛巻鷹ノ巣の輪側の仕上げ、ロ)目寛見寛座の輪側の仕上げ、の違いを明示するものだ。

 マイクロスコープ画像で見ると、はっきり分かるが、イ)は粗砥に差銭を軽く通して、バリを除去したもの、ロ)は輪側を強く研磨したもの、という相違がある。

 後者は砥石の肌理が細かいので、粗砥ではなく中砥石を使用したのだろう。

 現在の岩手県岩手町付近(葛巻や二戸至近)に、中砥石の鉱脈がある。

 

 もうひとつ、ロ)は、イの末鋳母より銭径が小さく、さらに地金が赤みを帯びている。

 これは、目寛見寛座のとりわけ目寛でよく見られる金質である。

 そこで、ひとまずこれを「目寛見寛座背千」または「目寛背千」として置き、照合を進めるべきだろう。

 

 なお、この品は数か月前に出品した品なのだが、「これを見る人はどこを見るのだろう」と思い、解説を加えないでいた。「背一様」としたのは、「目くらまし」なのだが、試したことをここでお詫びする。

 目寛見寛座には葛巻から渡った背千母銭が存在するが、その見極めは、①銭径が小型化していること、②輪側が直立していること、に加え③地金色を考慮する必要がある。

 小吹密鋳に母銭が渡るケースも少なくないからである。

 

 付記)さて、以上はいつも通り、推敲や校正をしていません。誤変換や表記のおかしい部分があると思います。