◎「密鋳当百改造母銭」 謎解きのゲーム その6
ト)その他の写し
さて、次はこの地域周辺で作られた当百銭を幾つか取り上げてみる。
⑯は、いわゆる「蝦夷写し」と呼ばれるものである。北海道には開拓農民が多数入植したが、その時に貨幣を持参した。このため、内地(当時)の貨幣が発見されるのだが、多くは江戸本座と東北地方のお金となっている。
しかし、時折、内地銭とはまったく似ていないものが見つかるが、これもそのひとつである。
鋳所不明銭としては「粗造写し」の類で、鋳砂が悪く地肌が粗い。おそらく鍛冶屋でもさえない者がごく少数枚だけ作成したのだろう。
少し脇道に逸れる。
⑰は前述の差し銭におそらく関連している。差し銭を買い受けたのは花巻のO氏からだが、一緒に食事をした後で店に戻ると、目新しいバラ銭がケースの上に積んであった。
「差し銭と出所は同じだ」と思ったのだが、実際、未選別の状態で、山の一番上にこの品が乗っていた。
すぐさま所望すると、「貴方が値を振ってくれ」との由。
収集家であれば、おそらく「中郭手細縁」の「異書(または異字)」と分類すると思う。
この品の面白いのは地金で、この銭種は通常、地金は黄色なのに、これは赤い。
直感では、当品は「南部か会津の仿鋳銭」で、最初にドキッとしたのは、この金質による。
あるいはこの銭種の「南部写し」「会津写し」になるのやも知れぬ。
そう考えたのだ。
「異書(異字)」の名は「本座由来の書体ではない」ということだが、拡大してみると、薩摩銭によく似ている。
⑱は「粗造写し」で黄銅銭である。
作りが粗末であること、砂固めが緩いこと、地金の錫味が強いこと、岩手県内で見つかったこと等の条件が合致すれば、この品は「廃仏毀釈の後で作られたもの」と見なされる。
小吹きの民間密鋳であれば、錫材の調達などは出来ず、銅素材をそのままのかたちで利用することになる。錫味の強い真鍮が大量に入手可能になったのは、廃仏毀釈の時より他に無い。
三十年ほど前に、北奥の買い出し業者に電話を掛け、訪ね歩いたことがあるのだが、その際に幾人かが「こういう黄色の出来の悪いのは仏具を溶かしたからだよ」と教えてくれた。盛岡に戻って来て、骨董商のk岸さんに見せると、そこでもまったく同じことを言われた。
こういうのは一目で判別できなければ、正直、南部銭は語れぬと思う。
たまに「何故そう言い切れるのか」と訝る人がいるが、そういう人は入札やオークションで珍品を買い集めている。
手の上の金屑を幾ら眺めても、新しい知見は生まれない。歴史の一端を知るには、「足を使って歩く」ことが必要である。
さてこれからが本題になる。
これまで眺めて来た様々な当百銭を束ねて、横に立ててみると、最後の図のようになる。
左端が今回の改造母であるが、これにそっくりな品が右端にある。
一目瞭然だが、それが最後に紹介した「粗造写し黄銅銭」(黄銅写し)である。(続く)