◎「密鋳当百改造母銭」 謎解きのゲーム その7
(3)まとめ
北奥地方に見られる幾つかの当百銭鋳造パターンを眺め渡してみると、冒頭の「密鋳改造母」の風貌や仕立て手法は、「黄銅写し」に酷似している。
そこで、さらに両銭を詳細に観察するものとした。
改めて「密鋳改造母」と「黄銅写し」を取り出して、同じ照明で撮影すると、ほとんど同じ地金をしていることが分かる。輪測の仕上げはさらに酷似しており、相違は母銭式と通用銭式という仕様の違いだけに見える。
出発点は本座銭であろうから、これを台にして、1)鋳写し母を作成した、もしくは2)鋳移した銭から出来の良いものを取り、母銭使用に耐えられるべく加工した、ということが分かれば、そこで本来の目的は大方達成される。
これを見る限り、おそらくは同じ職人が作成したものだ。
さて、密鋳当百銭では、本座の長郭写しの存在数が最も多く、次に細郭、広郭の順となるわけだが、念のため、「型」を詳細に比較してみる。
当初の印象では、「黄銅写し」の方は本座広郭から展開した品のように見える。ただし、直接写したものではなく、間に一段階余計に入っているので、変化が各所に出ても不思議ではない。
まず投影技法を用い、二つの画像を重ね合わせてみると、意外なことだが、面側は102%、背側は103%に拡大することで、「改造母」と「黄銅写し」の画像がほとんど一致した。
もちろん、幾つか相違点も目につくが、 その多くがアタリ(打撲)や欠損(鋳不足)であり、意匠の相違と見えるのは背の花押の一部となっている。
本座長郭と広郭は、書体のくせが大きく違う印象なのだが、それも端々だけで、元々それほど違ってはいないようだ。
ただ、欠損箇所が多いので、「広郭の郭を削ったもの」という解釈自体が誤りで、「長郭の変化したもの」という見方をすることも、まだ可能である(決定的な違いではない)。
型について分かり得るのはそこまでであるが、地金や鋳造法はどうだろうか。
そこでマイクロスコープを用い、表面を観察すると、金の配合と鋳肌はほぼ同一のものであった。溶銅が固まる時には、表面にブツブツと穴が出来るのだが、これもまったく同じである。
ただし、意匠に相違が見える花押上部を観察すると、鋳乱れに留まらない形状の変化が確認できた。
要するに、二つの当百銭の間には、「直接的な母子関係は存在しない」と見るのが妥当である。もちろん、この母型でこの通用銭を作ったのではないという意味だけである。
母銭は一枚ではなく、型に変化があることのほうが普通であろう。
さて、これまでの観察結果をまとめると概ね次のようになる。
1)地金の配合により、慶応四年から明治元年、もしくは明治三年から四年頃に作成されたのではないか。要するに仏具の大量破棄が行われた直後に鋳銭の素材として使用された。
2)いずれも同じ職人が作成した銭である。直接的な母子関係は薄いが、工程がほぼ同一である。このことは、「改造母銭」とそれを実際に使用して作成した「通用銭」が「存在する」ということの根拠のひとつとなり得る。要するに偽物と見るには手が込み過ぎている。
冒頭では、当銭を「密鋳銭を改造し母銭として使用したもの」と仮定したわけだが、近似した製作手法を用いた通用銭が存在することで双方が相互補完的な意味を持つ。
遡って、やや同語反復的な言い方だが、最初に全体の細かい摩耗を「砂型作成の時に使用したから」と断定したことは的外れではなかった、ということにもなる。 (了)
※この分野にあまり時間を割けないため、一発書き殴りとなっている。多々、不首尾があったかと思うと最後にお断りしておく。