日刊早坂ノボル新聞

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◎七月の品評(その6)

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◎七月の品評(その6)

S23 八戸背盛 母銭 25.4mm と橋野背盛大型鉄銭 29.6mm

 八戸背盛を掘り出したのはNコインズのO氏で、「雑銭から出た」とのこと。

 本人が出したのか、それを買い取ったのかは分からない。

 店に行くと、O氏が「ちょっと見てくれる」と奥からこれを出して見せたのだが、どう見ても八戸銭のつくりだった。

 八戸、この場合は葛巻や目寛見寛座といった座銭を指すが、それまで八戸には「当四銭は無い」と思っていた。飢饉の被害が甚大で、人肉食事件が起きるほど困窮したから、早くから銭の大掛かりな密造が行われていた。このため中心は一文銭になる。

 

 たぶん、この品は「現存一品」なのだが、前回は応札が無かった。

 「現存一品の品に何を迷うことがあるのか」と思っていたが、その後、「称浄法寺銭の小様母銭と区別がつかないから」だと気付いた。

 輪側の仕上げをみれば一目瞭然で、浄法寺は横から斜め、八戸は原則として縦の線条痕が入っている。これは前段の「少し時代が古い」ことと関連し、鋳銭用具の考え方自体が若干古いということによる。

 

 橋野背盛はサイズ的に30mm前後の原母から直接作った鉄銭だ。幾らかはこの段階で、見本を作成したようだ。

 輪側の仕上げが直角に立っているのは、大迫の銅原母と橋野の原母・汎用母になる。

 橋野では鋳銭開始にあたり、錫母から起こし直したようで、30mm超の原母をそのまま使用して汎用母を作った。

 大迫では輪の近くを研磨し、蒲鉾型に直したので、輪側が直立したままの母銭はあまり多くない。地金に相違があるので、基本は「輪側が直立している」こと、「母銭の地金が黒い」のが橋野銭の特徴になる。

 これだけでは大迫銭の原母を母型としたものとの線引きが完全ではないわけだが、裏をひっくり返すと、内輪の幅に変化がある。上述の通り、「作り直した」ことから生じた変化だ。

 見分けは割と簡単なのだが、あまり研究されておらず、地元収集家もほとんど知らないと思う。

 ちなみに、なぜ橋野銭の母銭の特徴を断言できるかと言うと、「原母を持っていたことがあるから」だ。今、その現品は東京練馬にあると思う。

 

 この橋野銭の抜群に面白いところは、背の「盛」字だ。不鮮明だが、大迫や浄法寺山内の各々にある「くせ」とかなり違う出方をしている。

 それに加えて、前々から思っていたが、盛字の点の位置が少し下にあるように見える。

 「下点盛」の本銭は、大迫から出た母銭がたった一枚あったきりだが、これは拓本すら残っていない。ただ「南部史談会誌」の記述を読む限りでは、面文は普通の背盛と相違が無いように思える。史談会の記述は会内での議論を記したものなので、要点が分かり難く、「背盛」という銭種について記したものか、そのうちの「下点盛」について記したものかの区別がよく分からない。

 改めて記す必要はないと思うが、二枚目以降の「下点盛」は総てがM氏の作品のようだ。残念な話だが、よくある話でもある。

 総てが「手書きの拓図」に一致してしまう。(手書きだからそもそも「拓図」ではないが。)

 一枚目が消息不明で、二枚目以降が作品となると、意味するものはたったひとつになる。

 

 脱線したが、この銭種におけるテーマは「一枚目の派生種を発見できるかどうか」ということになる。そういう経緯があったので、「盛」字を見てドキッとしたわけだ。 

 いずれも類品が見当たらず、研究資料としての性質が強いので、二枚セットにした。

 ま、話が通じる人はほとんどいないとは思う。

 一般には、大迫と橋野の区別がつかないのが現状だろう。

 この辺を追及すると、盛岡藩の鉄銭が抜群に面白く思えて来る筈だ。

 

 ちなみに、素材について、大迫では主に橋野から鉄を購入していたわけだが、銭座跡の発掘銭を含めた範囲で出来銭を確かめると、鉱鉄経由のものあり、づく鉄製のものありと様々だ。書面に書いてある通りではなく、素材を広く領内から買い集めていたということになる。