◎古貨幣迷宮事件簿 雑銭の話あれこれ
その1 後作品逆ト母銭(参考品)
何年か前、遺品整理のお手伝いをした時に、この品が出て来た。
一目瞭然の参考品だから、「これは後出来ですのでお返しします」と返却した。
こういうのを預かり、参考品として売却したなら、後々、面倒が生じやすい。
参考品として安価に入手した者(B)が、「これはドコソコで買った品です」と他所に転売したりするのだが、その時には往々にして「参考品」という但し書きが消えている。
次にそれを買った人(C)が売り手(B)に文句を言うと、「私はドコソレから買ったので、詳細は知りません」と答える。そこでcは、あろうことか最初の出品者(A)に文句を言うことになる。
「でも、それは参考品として千円で渡したものですよ」と説明しても、Cは腹を立てているので、怒りを周囲に撒き散らす。
時々、聞く話だが、実際に私も経験がある。
大体、他人の名を使うくらい恥ずかしいことはない。「自分には鑑定眼が無い」と言うようなものだし、そもそも、その品が良いと思って買っているのは本人だ。
自分の眼で見て、自分の頭で考えてこその道楽だ。
やや脱線したが、部屋の片づけをしていたら、書籍の下から、これが出て来た。
ここで疑問に思ったのは、「何故こんな風にしたのか」ということだ。
輪側をグラインダで仕上げたので、直角に切り立っている。
これじゃあ、騙すに騙せない。
ところが、改めて手にしてみると、「これなら母銭として使える」ことに気が付いた。
なるほど、これを作った人は、これをそのまま母銭として売ろうとしたわけではないようだ。もしそうなら、鑢の溝を鏨で切って線条痕を付けるか、砥石で丁寧に仕上げる。
すなわち、「これで通用銭を作ることを考えた」ということか。
だが、鉄銭なので、本物らしく作るのはかなり難しい。
戦前、南部銭のコレクターであるO氏は、昭和十年と十六年に、主要な南部銭の写しを作った。
その中に背山の鉄銭があるのだが、O氏は密鋳背千鉄銭を溶かして作った。
こうすると地金が本物に近くなるからだ。
ちなみに、鉄銭を鋳潰して再鋳造すると、鉄が六割くらいに量目を減ずるそうだ。
ここで付記することは、O氏の摸鋳は「販売」を目的とするものではなかったことだ。
戦直前、戦中であれば、鉄の寛永銭に金を出す者はいない。おそらく純粋に好奇心によるものだったろう。この辺は当初より東京に売ることを念頭に置いたM氏の摸鋳や新作づくりとは異なる。
O氏は戦後まもなく亡くなったのだが、この時の出来銭がある程度残されていた。
没後十年以上が経ってから、ある人が摸鋳の背山を鉄当四銭の中に放り込んで、雑銭を売却した。
コインブームが来ると、珍銭探査が盛んになるのだが、雑銭から背山が次々に出て、東北地方の雑銭が売れ、個別の背山の出品も相次いだ。
ほとんどの人は、雑銭から出た品が偽物とは考えない。その盲点を突いたのだ。
そして、それを知る人が非難の矛先を向けるのは、それを作ったO氏になる。
これも盲点で、「金を得るために作った」と考えるのが自然だからだ。
だが、もちろん、真実は違う。
数年前にも、主だったコイン店に南部の希少銭が並んでいた時期がある。
多くは雑銭から拾ったものらしい。
実態はいちいち調べたりはしないが、多くは「ご愁傷さま」になると思う。
でも、O氏は損得を考えずに作ったので、今では見分けが付かなくなっていると思う。
結果的に、その銭種全体の信用を落とすから、試験的に摸鋳を試みるなら、結果を確かめたらすぐに壊すか、外に漏らさないことだ。
(所要が出来たので、続きは後で。)