日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎遮っていたからなのか(516)

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令和二年七月十九日撮影

◎遮っていたからなのか(516)

 神社の前で自分自身を撮影した時に、時々、背後から「何か」に体を掴まれる構図になる。

 その要因をあれこれ考えさせられたが、そのひとつの答えは「(私が)通り道を遮っているから」というものだ。

 参道の中央は、いわゆる「神が通る道」で一般参拝客は「通ってはならない」とされているのだが、撮影の都合上、正面に立たねばならない時もある。

 神社や仏閣には「あの世の住人」も多く出入りするわけだが、これまでに分かっている通り、あちら側から「私のことが見える」ので、私が正面に立つと通り道を塞いでしまう。

 そこで「何だよ。どけよな」と押しのけようとするのではないか。

 

 そう考えると、確かめてみたくなり、直ちに神社に向かうことにした。

 幸い、この日は珍しく晴れており、撮影には向いている。

 一方、今は夏季だから、そうそう鮮明には写らないという傾向もある。

 

 ま、今のうちに練習をしておけば、秋以降の本番の際に役に立つ。

 目的は撮影することではなく、生者の世界とあの世がどのように関わっているかを知ることだから、それに繋がって行けばよい話だ。

 

 細かい異変が幾つか出ていたが、最も興味深いのは五枚目の画像だ。

 ガラスの継ぎ目を境に、左右に私の姿が映っているのだが、右側の人物は私ではない。

 前に幾度か経験したが、あの世の住人は、「その場に居る者」の姿を模しとって、それと気付かれぬようにすることがある。これはこれまで幾度か経験しており、一時はそれを「ドッペルゲンガー」だと考えたことがある。今回のようにガラスの継ぎ目の左右ではなく、画像の左右の端に離れて写ることもあるからだ。

 右側の「私」は右腕の先が途中で煙に変わっており、これが左側のガラスにも見えている。また、本来、右側のガラスにもフラッシュ光が映らねばならないのだが、これが消失している。本来は三枚目の画像のように、左右に確りとしたフラッシュ光が映らねばならない。

 よって「二重映り」ではなく、私の姿を真似たものだと思う。

 プロセス的には、先に「煙」が実体として存在しており、そこに私が来たので、私の姿を真似たのではないかと見ている。

 姿を真似るのは、その相手に「寄り付く」意図があるかもしれんということだ。

 きちんと自覚すれば影響は生じないのだが、多少、気に留めて置く必要がある。

 

 全般的には、やはりこの時期は鮮明には写らないようだ。

 はっきりと目視確認出来るのは、ひと月に一度程度になる。

 だが、相変わらず気配は良くない。ガタガタと変化している。

 

 追記)4枚目の画像では、「フラッシュが無い」どころか、私の頭が無くなって、後ろの景色が映っている。前にあるものが消えるのでは、「二重映り」どころではない。