これを発見してから確信を得るまでに六七年かかった。
複数の先輩(戦前生まれ)に見て貰ったが、製作から見て「間違いない」とのことだ。
この品を発見したのは、O氏の遺品整理の時になる。
遺品の一部を預かり、売却の手伝いを請け負ったのだが、雑銭が大量にあった。
これを、東京や花巻の古銭会を通じて販売したのだが、一部は不人気で売れ残った。
とりわけ、文久銭は三四千枚あったのだが、この銭種の収集家が少ないこともあり売れたのは七割に満たない程だった。
「責任販売」なので、売れ残りは私が引き取る約束になっていた。
ちなみに、これはかなり条件がキツい。収集家に見向きもされない雑銭を引き取ることになるからだ。
そもそも私は近代貨以上に文久銭に興味がなく、扱いもぞんざいだった。
自身の買取が決まった後、嫌々家に持ち帰り、郷里の倉庫に送るべく箱詰めを始めた。
ところがひと固まりを持ち上げようとしたら、床に古銭が散乱してしまった。
藁差しだったのが、先が解けたり切れたりしていたためだ。
「あーあ」とため息を吐きながら、文久銭を拾い集めると、その中に①の寛永銭があった。
「おかしいな。これは文久銭の差なのに」
古銭会でまとめて売却して来たばかりだから、同じ麻袋に入っていたものであることは疑いない。
さらに差銭を調べてみたが、同じ差にもう一枚寛永銭(➁)が混じっていた。
既に自分のものなので、一旦仕舞い、一年くらい経ってから、取り出してみた。
改めて眺めると、やはりどう見ても文友銭のつくりだ。
とりわけ背波が分かりよいが、こういう造りの密鋳銭は存在しない。
この辺は、密鋳銭コレクターならひと目で分かる筈だ。波に刀が入り細くなっているわけだ。この波形は文久銭特有で、通常より薄い出来にも拘らず、背は鮮明である。
鋳砂も密鋳銭とは異なり、かなり肌理の細かいものを使っている。
一番分かりよいのは、ペラペラの銭だということだ。
ある先輩収集家は、「こういうのが本当の文久様というものだ」と語った。
未勘銭の「文久様」は「文久母銭の地金」と「製作手法」という点で似ているところもあるが、通用銭とはまるで違うものだ。
おそらくこれまで認知されて来なかっただけで、それと知らずに持っている人もいるだろうと思う。
文久銭の中に混ぜると、何ら違和感はないのだが、明和や文政の間に入れると、「まるで製作が違う」ことが分かる。
古貨幣を見る時に、もし密鋳銭コレクターなら、最初に輪側を見て、次に背面を見るだろう。最後は面側で、銭種よりも製作の方を重視する。
この習慣がなければ、きっと「見すぼらしい銭」としか見えず、気付かなかっただろうと思う。
おそらく文久銭を鋳造する際に、試験的に幾らか寛永銭も作ったのだろう。
母銭の型自体が、明和や文政(縦鑢)と違うし、また安政銭は横鑢だが輪側を削る装置が異なる。
判別は簡単なので、探してみると、案外、多方で見つかるのかもしれない。
文久銭の仕上げには、輪側が立つくらい横鑢が入ったものと、薄すぎるため輪側が丸くすり減ったものがあるが、双方の特徴を持つものがひとつずつになっている。
このように錫の多い配合は、密鋳銭ではほとんどない。