◎夢の話 第911夜 鏡の国のポリス
9月1日は体調が悪く通院から帰ると、終日横になっていた。どうやら状況的には、80歳前後の人と同程度らしい。実際、周りの患者もそれくらいだ。
これはそんな風に横になっていた時に見た夢だ。
夢の中の「俺」は警察官だ。四十歳くらいで独り暮らし。妻と娘は三年前に交通事故で死んだ。
俺の担当は、通称で「ミラトリ」と呼ばれる部署だ。「鏡取り締まり」を略して「ミラトリ」と呼ぶ。
二年前にその異変は起きた。鏡の中に突然、「別の世界」が現れるようになったのだ。
その「別の世界」は、こちら側の世界とほとんど変わらぬ景色をしていた。
緑と水の多い田園風景の中に、緑色がかった肌を持つ人々が暮らしている。
世界中の鏡に「向こう側の世界」が現れるようになると、幾らも時間が経たぬうちに、全世界で「鏡の使用禁止令」が発布された。
これで多くの国民が「ガラスに銀やアルミを付着させた鏡」を使うことが出来なくなった。銅や銀、アルミといった金属の表面を直接磨いたものには、向こう側の世界が映らなかったから、こういった金属鏡と交換しなくてはならなくなったのだ。
普通の鏡が禁止になった理由は簡単だった。
向こう側の世界に住む住民が、「あまりにも幸せそうだった」からだ。
薄緑の肌を持つ鏡の国の住人は、豊かな自然の中、穏やかな暮らしを送っている。
皆が幸せそうに生きていたのだ。
それに引き換え、こちら側はどうだ。
一部の者が富を独占し、国民は奴隷のようにこき使われている。疫病が蔓延し、環境も汚染されている。
向こう側の世界を覗き見ることで、こちら側の政府や富裕層に対する怒りが助長される。
「おまけに、隣にはクソみたいな国があり、百年前のことで繰り返し補償を求める奴らがいるからな」
自分たちが苦しいのに、他国にはたかられる。そんな生活にはウンザリだ。
そんなわけで、各国の政府が取った対策は、「鏡を使えなくする」ということだった。
そこで、警察にそれ専用の「鏡取り締まり」の部署が生まれたというわけだ。
たかが鏡だが、罰則は厳しい。
数か月の「廃棄期間」の後は、もし鏡を所持していると、逮捕され拘留されてしまう。
要するに、政治犯と同じ扱いになる。
もし、所有者が少しでも抵抗すれば、「ミラトリ」はその「犯人」をその場で射殺してもよいことになっている。
そういう時に重宝されるのが「俺」のような人物だ。
俺は妻子を失い、既に自分の人生を見失っていた。
何を見て何を聞いても心が動かない。ただ求められたことを果たすだけ。
前の晩どころか、その日の朝、何を食べたかすら憶えちゃいない。
そんなわけで、鏡の不法所持の取り締まりを担当したのは、皆、俺のようなはぐれ者ばかりだった。
少しでも嫌がれば、容赦なく殴りつけるし、抵抗すればそいつを撃った。
非労働力人口がかなり増えているから、「多少のことは構わない」というお墨付きを与えられてもいた。
だが、国民の多くが鏡を隠し持っていた。
自分たちには無いものを、向こう側の世界の住人が持っていたからだ。
樹からリンゴを手ずからもぎ、家の前の湖で魚を釣る暮らしをしている。
穏やかな暮らしを見ているだけで、幸福な気持ちになって来る。
手放すわけがないだろ。
そんなわけで、俺は毎日出動し、不法所持者を摘発した。
毎日、人を殴りつける暮らしを送っていると、次第に平気になるから、ささいなことでも、つい反射的に人を殴ってしまう。
俺はそんな風な人間に変わっていた。
不思議なことは、こちら側からは向こう側が見えるのに、向こう側からは一切こちらを見ないことだった。
恐らく、情報が一方通行で送られており、向こう側からはこちら側が「見えない」のだろう。ただの一人もこっちに視線を向ける者は無い。
この日、俺はいつものように出動した。
摘発対象は、高原の片隅に立つ屋敷だった。
ここは金持ちの別荘だったが、その有名人が亡くなると、訪れる人が絶えた。
それで長い間放置されていたのだが、局の者が故人のコレクションがそこにあることを突き止めた。
「中世から近代の骨とう品の収集家で、大きな姿見のコレクションがあるそうだ」
その同僚の言に従って、俺のチームの八人が出動したのだ。
いつもと違うのは、そこに住人がいないことだ。
それなら、武器も要らず、ただ摘発品を運び出し、破壊するだけの作業になる。
実際、その作業は短時間で終わった。
俺たちは三十もの姿見を外に運び出し、家の前で破壊した。
「何だか勿体ないような気がしますね。数百年前のものなのに」
「決まりだから仕方ないだろ」
「でも、ガラス面だけ壊せばよかったんじゃあ?」
「あ、本当だ。もっと早くそれを言えよな」
僅か一時間半で作業が終わり、俺たちは帰投することになった。
皆が帰り支度をする中、俺はもう一度屋敷を点検することにした。
「皆は帰っていいぞ。俺はもうひと回りして帰るから」
仲間を送り出し、俺は一部屋ずつ見回った。
さしたる意味はないが、警棒で壁をコツンコツンと叩いて回った。
金持ちの家だし、もしかすると隠し金庫か金庫部屋みたいなのがあるかもしれん。
こんな骨とう品のコレクターなら、大切な品はきっとその中だ。
「お宝の鏡を隠し持っているかもしれん」
俺の直感は当たっていた。
寝室の壁に音の違う個所があったのだ。
その壁を探ると、壁際にスイッチがあったから、それを押すと、壁の半分が開いて、別の部屋が現れた。
「おお。コイツはすごい」
中に入ってみると、一番奥に大きな姿見が置いてあった。
他には何もない。もっと高価な財宝や絵画なんかもあっただろうが、その持ち主が晩年に売り払ったのだろ。
その姿見に近寄ると、高さが二メートルを超えるどでかい鏡面を使用していた。
明かりを点けると、鏡には向こう側の世界が広がっていた。
「まるでスイスとかにある高原の景色みたいだな」
俺は行ったことがないけどな。写真で見たのと同じだ。
思わずその景色に見入ってしまった。
すると、草の沢山生えた斜面を、女の子が歩いて来るのが見えた。
白と赤の洋服を着ている。肌はやはり薄緑色だった。
女の子が十メートルくらいの距離に近付くと、顔かたちがはっきり見えるようになった。
そこで俺は気付いた。
その子は、三年前に死んだ俺の娘に似ていたのだ。
「奈菜にそっくりだな。肌の色を覗いて」
だが、これこそ政府が鏡を禁じた理由だった。
ひとは鏡の中に幸福そうな人たちを見る。
そして、その中に自分や自分の家族、友人に似た人を発見してしまう。
ここで俺は警棒を振りかざし、鏡を叩き割ろうとした。
しかし、俺が警棒を振り下ろそうとした、その瞬間、向こう側の世界の女の子が俺のことを見た。
思わず手が止まる。
「え。俺のことが見えるのか。そんな筈は・・・」
頭がクラクラする。こんなのはこれまで一度も無かったからだ。
女の子は俺のことをじっと見つめている。
数十秒後、女の子の口が動いた。
「パパ」
声は聞こえないが、唇がそんな風に動いていた。
頭の中でがらがらと思考が崩れる。
「こりゃ一体どうしたことだ。何が起きてるんだ」
女の子は後ろを向いて斜面の向こうに叫んだ。
誰かを呼んだらしい。
すると程なく、大人の女性がやって来た。たぶん、この子の母親だろう。
その女性は俺を見ると、女の子と同じ言葉を叫んだ。
「パパ」と口が動く。
俺の方も思わず叫んだ。
「雪絵。奈菜。お前たちなのか」
肌の色こそ薄緑色だが、俺の妻子に疑いは無かった。
向こう側の世界は、どこか知らぬ「異次元の世界」などではなく、この世界に関わり、この世界を少し変化させた世界だったのだ。
俺は顔がくっつきそうになるくらい鏡に近付いた。
向こう側の妻子も同じように間近に着て、俺のことを注視する。
「会いたかったぞ」
「会いたかったわ」
俺の両眼からとめどなく涙が零れる。
向こうの二人も同じように涙を流している。
しばらくの間、俺たち親子は再会を喜んでいたが、しばらくして俺は一層暗い気持ちになった。
こうやってまた会えたわけだが、これはあくまで鏡越しの話だ。
これまでも散々、研究されてきたのだが、鏡の向こう側と直接接触する方法はない。
見ることは出来ても、行き来が出来ないのだ。
たった二十センチの距離にいるのに、手を触れあう術はない。
俺はガラスに額と手を当て、下を向いた。
「コンコン」「コンコン」
ガラスを叩く振動に気付き俺が視線を上げると、緑色の妻が微笑んでいた。
身振りで、「少し離れて」と伝えようとしているようだ。
そこで俺は一歩後ろに下がり、状況を見守った。
妻は鏡の枠の外、腰の辺りの部分に手を伸ばす。
そこはちょうどドアノブの位置になる。
妻がそこにある「何か」を少し動かすと、「カチャ」と音がして、ガラス面が開いた。
「おお。これは鏡ではなく、扉だったのか」
妻と娘は、今度は俺に聞こえる言葉を発した。
「パパ」「パパあ」
その二人の後ろから、高原の澄み切った空気がどっと流れ込んで来た。
ここで覚醒。
「向こう側の世界」の住人が一切こっちを見なかったのは、「見る必要がなかった」、「見たくなるようなものではなかった」ということだ。
向こう側の住人が誰一人扉を開けようとしなかったのもそのためだ。
この世は「クズの集まり」ということ。