◎「曖昧さの棄却」(546)
この数日はあれこれと気になることを見付けていたが、TPOが変化しないうちに、それらを「確からしいもの」と「曖昧なもの」とに分けて置く必要がある。
「あの世」に関しては、可視聴域の境目にあることもあり、「見間違い」や「空耳」が発生する上に、「先入観」がその間違いを補強してしまう。
そこで、三日連続になるが、この日も参拝することにした。
体調的にいつまでこういうのを調べていられるか分からないから、情報として固めておくべきことは固める必要があるわけだ。
最も疑わしいのは、昨日の鳥居の画像だ。
とりわけ、ハンチング帽の老人と女性が最も怪しい。画像の質もそうだが、先入観が勝った面があるかもしれぬ。
この境内、とりわけ鳥居から狛犬の間では、「ハンチング帽で白い上着の老人」がよく写る。「老人夫婦」も同様によく写るが、この二つは別々だ。
(もちろんだが、生きている人のことではないので、念のため。)
ハンチング帽の老人と、その配偶者らしき女性が写ったことは無い。
となると、一瞥しての解釈に紛れが生じていることはありそう。
実際に現地で確かめてみると、日光の角度により「二人の人影に見える」瞬間があるようだ。なるほど、先入観が勝っていたか。
参道の左側は、いわゆる「通り道」で、人も幽霊もここを通る。人は道の上だが、あの世の住人は道の脇の草地を通るようだ。こういう経験的知識も先入観として影響したか。
もちろん、疑わしいのはこの二人だけで、周囲の気配は幽霊の見えるパターン通りだった。
この日、参拝したのは冬の午後四時で、雨の後の曇天。
この環境では、光量が不足しており、撮影は難しい。
いかに優れた霊場でも、やはり環境的な条件はある。
神殿では、自身を含め、生ける者たちが穏やかに死を迎えられることを願った。
表現が奇妙だが、それだけ、死後に「どうしてよいか分からず、徘徊する」者が多いということだ。
ま、きちんと通り道を通り、参拝出来るような状況であれば、いずれ寛解(成仏に同じ)出来ると思う。