日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎「曖昧さの棄却」(546)

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令和二年十一月二十五日撮影

◎「曖昧さの棄却」(546)

 この数日はあれこれと気になることを見付けていたが、TPOが変化しないうちに、それらを「確からしいもの」と「曖昧なもの」とに分けて置く必要がある。

 「あの世」に関しては、可視聴域の境目にあることもあり、「見間違い」や「空耳」が発生する上に、「先入観」がその間違いを補強してしまう。

 そこで、三日連続になるが、この日も参拝することにした。

 体調的にいつまでこういうのを調べていられるか分からないから、情報として固めておくべきことは固める必要があるわけだ。

 

 最も疑わしいのは、昨日の鳥居の画像だ。

 とりわけ、ハンチング帽の老人と女性が最も怪しい。画像の質もそうだが、先入観が勝った面があるかもしれぬ。

 この境内、とりわけ鳥居から狛犬の間では、「ハンチング帽で白い上着の老人」がよく写る。「老人夫婦」も同様によく写るが、この二つは別々だ。

 (もちろんだが、生きている人のことではないので、念のため。)

 ハンチング帽の老人と、その配偶者らしき女性が写ったことは無い。

 となると、一瞥しての解釈に紛れが生じていることはありそう。

 

 実際に現地で確かめてみると、日光の角度により「二人の人影に見える」瞬間があるようだ。なるほど、先入観が勝っていたか。

 参道の左側は、いわゆる「通り道」で、人も幽霊もここを通る。人は道の上だが、あの世の住人は道の脇の草地を通るようだ。こういう経験的知識も先入観として影響したか。

 もちろん、疑わしいのはこの二人だけで、周囲の気配は幽霊の見えるパターン通りだった。

 

 この日、参拝したのは冬の午後四時で、雨の後の曇天。

 この環境では、光量が不足しており、撮影は難しい。

 いかに優れた霊場でも、やはり環境的な条件はある。

 

 神殿では、自身を含め、生ける者たちが穏やかに死を迎えられることを願った。

 表現が奇妙だが、それだけ、死後に「どうしてよいか分からず、徘徊する」者が多いということだ。

 ま、きちんと通り道を通り、参拝出来るような状況であれば、いずれ寛解(成仏に同じ)出来ると思う。