日刊早坂ノボル新聞

日々のよしなしごとを記しています。

◎「小さい老人」の謎が解ける

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「小さい老人」令和三年五月二日撮影  ※身長が120㌢以下で画像の中だけにいる
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「猫わらし」令和元年十一月二十四日撮影 ※実物がいないのにガラス戸に映っている

◎「小さい老人」の謎が解ける

 先日の「小さい老人」は、一昨年の「猫わらし」と同じ性質の者のようだ。

 この世の者ではないが、幽霊とは出方が違うので、いわゆる「妖怪」の仲間ではないかと思う。「幽霊」の場合、何らかの「感情の吐露」が必ずあるのだが、コイツにはまったくない。喜怒哀楽の所在を感じさせないのだ。

 

 「猫わらし」の時には、外には居らず、「ガラスのみに映っていた」が、今回の「小さい老人」は、「外にいる」がガラスには映らないのではないか。今回これは人の影になっており見えない。

 要するに、可視域の境界線上にいるということだ。

 

 この手のヤツが目視で見えるケースもあると思うが、通常、コンマ下2秒くらいの間だから、瞬きの間くらい。ほとんど気付かぬわけだが、イメージの残像が残るので、「何となくそこにいる気がする」印象を与える要因となる。

 

 ガラス戸もカメラも無いはるか昔に「幽霊」、「妖怪」や「鬼」を認知していたのは、あながちすべてが想像や妄想の産物だとは言えぬのかもしれん。

 

 明治の妖怪博士・井上円了先生の言う「真怪」は必ず存在する。

 あとは科学技術でどこまでアプローチできるかということになる。

 「空気と同じで、眼に見えぬからと言って、それが存在しないことの証明にはならない」(これは早坂語録)

 

 追記1)二つを並べてみて気付くのは、「小さい老人」、「猫わらし」とも、「同じ角度から撮影している」ということだ。
 太陽の位置やカメラの位置、ガラスの反射角度に、一定の条件が存在する可能性がある。
 もしくは、いわゆる「通り道」に当たっている。
 これはこれまで認識していたルートとほぼ一致する。

 

 追記2)この神社では二つの「通り道」がある。

 神殿での祈祷と人々の祈願が向けられているため、「生きている者」も「既にこの世を去った者(幽霊)」も集まる。

 そのことは「救済を求めて」の行為だから、特に問題は無い。むしろ、きちんと祭事を務めていることの表れだ。

 殆どの場合、参拝客に問題は生じないが、人の中にはごく稀に「(幽霊から見て)その人がそこにいることが分かる」者がいる。そういう幽霊を家に持ち帰らぬよう、「通り道」に触らぬように心掛けた方が無難だ。

 混み合った駅や電車で「社会的距離」を保つのと同じように、「あの世的距離」を置いた方がよい。

 

 あまりピンと来ぬ人が殆どだと思うが、こういうことに気を払うことは「今生を穏やかに過ごす」ことに繋がり、ひいては健康寿命が長くなるという効果を生む。

 いつも書く通り、「病気になってから、慌てて祈願を始めてももはや遅く」、何も問題が無いうちからきちんと心掛ける必要がある。

 ひと言で言うと、「死期を先延ばしにすることは可能だし、かつ普通に立って歩ける期間が長くなる」ということだ。

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正しい参拝路の道順